ふたりのせかい

きみとくるまにのって

「おじさん」
 窓の外を流れる景色を見て、少女がはしゃいだ。
「海だよ!」
「そうだな」
 運転する男は、ちらりと一瞬だけ目線を外して少女の指すほうを見る。眼下に広がる蒼々とした海。
「すごい!」
「そうか」
 また前に目線を戻した。助手席にぎりぎり座ってきゃあきゃあ騒ぐ少女があんまり楽しそうなので、男は計画してよかったと内心思った。


 おでかけ行きたいと少女が言ったのは先週の木曜日だった。夏の暑さも落ち着き、家の中に入ってくる風が涼しいと感じる時間だった。
 男に仕事があったせいで盆もどこにも行けず、しかし近所の川で少女は十分満足していたらしいのだが、やはりテレビ番組でそういう特集を見てしまうと行きたくなってしまったらしい。
 ただし男には言わなかった。少女はぼそりと独り言で言ったのである。休みの日に近所に出かける程度なら男に言うのだが、遠出となるとさすがに言えなかったようだ。
 男がまだトイレにいると思っていたらしい少女がこぼした一言は、見事居間に入ろうとしていた男が拾い上げた。
『どっか行くか』
 いないはずの人間がいると気づいた少女は、ひどく驚いて振り返った。
『お、おじさんいたの』
『いたらまずいのか』
 一服したくなって縁側に腰掛ける。火をつけて一口吸い、そして少女のほうを見やった。
『どこ行きたい』
『……おじさんおしごとは?』
『休みぐらい取れんだろ。上と掛け合う』
 何度か会わせたことのある職場の人間も、この少女に弱い。ジジババの初孫かと言わんばかりの惚れようなので、出かけたいって言うんで、とでも言えば十中八九、二連休くらいは軽く取れそうである。
『ほんと?』
『わからんけどな。おまえの希望だけ聞いといてやる』
 少女から顔をそらし、もう一口煙草を含む。ふう、と紫煙が風に乗って向こうのほうへ流れていく。
『んー、ドライブがいいなあ』
『大雑把だな』
『おじさんといっしょなんだったらどこでもいいもーん』
 ぶわーって風ふくやつ! と髪の毛を両手で握って持ち上げる。意味がわからないがおおかた高速道路の話だろう。
『休み取れたらな』
『うん!』
 もはや男が話を提案しただけでも嬉しいといったふうである。そんな安くていいのかと笑ってしまったが、笑えなかったのは翌日職場で有給申請した際に上司がぽんと三連休もくれたことである。


 お気に入りの薄い水色のひらひらしたワンピースを来た少女は、途中のサービスエリアでもはしゃぎ倒した。
 ノースリーブなので上からレースのカーディガンを着せていたのを車で脱ぎ散らかし、二センチほどヒールのあるサンダルをかつかつ鳴らして走る。
「こけるなよ」
「こけない!」
 全開で笑う少女はやはり人目を引くようで、可愛らしいと周りで言う声が聞こえる。
 男の方は麻のハーフパンツにシャツだ。見事に旅行中の親子である。
「おじさーん、ごはんたべよう!」
「なに食いたい」
 朝八時頃に家を出てしばらく走らせて高速に乗った。お腹がすいてきた頃だろうと一旦休憩がてら昼食にと車を止めた。
 二泊するので、せっかくだからと旅館まで迂回して走らせることにしている。このサービスエリアを出たら次で降りて一旦下道を走らせる予定だ。
「うーんとね、ドー」
「ナッツはおやつに買ってやるから飯を食え飯を」
 少女の言葉を引き継ぐ。ちっばれたかと言わんばかりの少女に焼きそばをすすめてみると、それならたこやきがいいと六個入りを指さした。
「おじさんは?」
「俺は麺でも」
「きのうラーメンだったでしょ」
「カツ丼」
「……むう」


 あちあち言いながらたこ焼きをかじる少女を、危なっかしく見守りながらカツ丼を食べる。
「おじさん、このあとはー?」
 たこ焼きをあとひとつ残してこちらに目をやる。
「高速降りる。ぐるっと回ってから泊まるとこ行く。旅館の前に海あるから今日は海我慢しろ」
「うん。で、お花どこで買うの?」
「いつもんとこでいいだろ」
 うん、と少女は納得して最後の一つを口に放り込んだ。
「おなかいっぱいー」
 六つすべて食べてしまった少女はセルフの水も飲み干して笑った。
「ドーナッツは二個だけな」
「ほんとに買ってくれるの」
 相当食べたのに少女はきらきら目を輝かせた。おやつだぞおやつ、と言い聞かせる。
「溶けるからチョコかかったやつはやめとけよ」
「ゴールデンチョコとおさとうライオンと天使のクリーム!」
「二個っつってんだろうが」


 下道を走らせ、途中で花屋に寄った。そして寄り道としての目的地についた頃には時計はそろそろ三時をさそうとしていた。
 少女はうーんと背伸びをした。
「ついたー」
「おい、花持て」
「おじさんバケツ持ってきてね!」
 だーっと少女は駆けていく。旅館を決めるとなったときに、ドライブの道すがらここに来たいと言ったのは少女だった。
 駆けたせいでつばの広い帽子がふわっと風に浮いた。あっと言わないあいだにふわふわと宙に浮いてしまい、少女には届かない高さまで上がってしまう。
「バカ」
 運良くぺしゃんと地面に落ちたのを見てほっとし、目を離す。車に鍵をかけて少女のもとまで歩いた。
 花束を抱えたままうんうんと地面に手を伸ばしているが、バランスが悪く手が届かないらしい。しゃがめばいいものをと思いつつ男はそれを拾ってぱんぱんとはらってやる。
「危ないからあんまり俺から離れるな」
「……うん」
 帽子が飛んでいったのにびっくりしたのか少女はおとなしくなり、とてとてと男のうしろをついていく。
 水を汲んだバケツと柄杓を持って迷路のような通路を通った先に、目的の墓はあった。
「盆に来れなかったからな」
「そうだよ、おじさんおしごとだったもんねー」
 許してあげてねと墓石に向かって言うので、おまえよかこっちのが理解あるよと帽子ごと頭をわしわし撫でた。


 墓の周りの草をむしるあいだ、少女は花束を二つに分けた。花立を水道で洗って、じゃぼんと花を生けた。
 会心の出来と言わんばかりに額の汗を拭う。
「かんぺき!」
「はいはい。数珠な」
 この少女はいっちょまえに自分の数珠を持っている。墓参りセットから紫のワンポイントの入った数珠を渡して、線香の束に火をつける。
 手を合わせる。蝉のうるささが耳にこだます。
 少女がぼそぼそとつぶやいた。
「おじさんはやさしいです……ドーナッツもふたつっていってたのにみっつ買ってくれました……」
「おい」


 結局旅館についたのはもうあたりが暗くなってからだった。女将に遅くなってしまった旨を謝り、先に風呂に通させてもらう。
 部屋付きの露天風呂に入る。あたりも暗いので、星がよく見えた。
「おじさーん、あれなんの星?」
「訊くな」
 じゃぼじゃぼと足をばたつかせながらぷかーと浮いている少女の手をつかまえつつ返す。
 明日は海に行って、明後日はのんびりお土産買って帰ろうね、というような内容を少女は楽しそうに言った。


「おじさぁん」
 少女が間延びした声を響かせる。
「なんだ」
「ありがとうー」
「はいはい」

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