ふたりのせかい

きみとかぜっぴき

「おじさん」
 朝。盛大に窓を開けて少女は一言叫んだ。
「さむいいいいいい!!!!! おじさんしぬ! しんじゃう!」
「そんな簡単に死ぬな」
 年の瀬とはまだいかないが、太陽光がまばゆくなくなり、赤い街路樹が少しずつ茶色くなってくる―-季節でありながらそんな情緒もない。
「さむい! たいへん!!」
「そうか」
「おじさん!」
「なんだ」
「かぜひきやすいんだから気をつけてね!」


 というやりとりをほんの数時間前にしておきながら、この現状はなんなのか。
「おじさん……」
 国道で車を走らせ、信号に引っかかり男は舌打つ。急いでいる時ほど信号というものは言うことを聞かない。
 助手席の少女はいつもより数段静かで、男は余計に心配になる。
「大丈夫か」
 赤信号の合間、男は少女をちらりと見た。ビニールを抱えた少女は反応を示すのもつらいようにうなずいた。
「あと五分ぐらい頑張れ」
「……うん」
 はく、と言ったのは病院に着いた瞬間のことである。


 院内は同じような雰囲気の子供で溢れかえっていた。どうやらいま流行っているらしい。
 空いている席を見つけるのも一苦労だ。保険証と診察券を出してから、長ベンチの端にとりあえず少女だけを座らせたが、ゆらゆらとふらつくので、諦めて抱え上げた。椅子に腰かけ、横向きに座らせてそのまま乳母車になる。
「おじさん……」
「吐いてましになったか」
「ちょっとだけ」
 少女はうーんとうなってくったりしている。顔が赤い。さっきよりもしかすると熱が上がったかもしれない。脇に挟んだ体温計はまだ鳴る気配がない。
少女が男の家にきて初めて体調を崩した。季節の変わり目が弱いのかもしれないと頭の中でメモを取りながら、少女を見守る。


「ハイ風邪。次!」
「ふざけんなヤブ医者」
 診察室のドアを開けて早々これだ。こんな医者に大勢の子供がかかっているというのは泣かせる。酒癖の悪い馴染みの医者で、腕だけはいい。腕だけは。
 男は丸椅子に少女を腰かけさせる。本当に医者としての腕だけはいいのだ。
「まあ冗談だけどさ、これはもう風邪だよ。熱が三十九度八分、症状が熱に加えて咳痰嘔吐倦怠感、節々の痛み。ちょーっとお熱高めだから念押しでインフルエンザの検査もするけど、――えーっと、症状が出たのが今日の今日の昼前ね……」
 時計を見やる。もう四時半を回りつつあったが、至るところからひっきりなしに子どもの泣き声が聞こえる。
「咳が出て、だるーくなってから、お熱はかったのかな?」
 カルテにミミズを書くヤブの言葉に、うん、と少女がうなずく。
「あーんできる?」
「できる」
 あーん、と口を開けたすきにヤブはさっと木べらを差しやる。ライトを当てて、ふんふんと言いながらすぐに引っこ抜いた。
 木べらを捨ててから、今度はインフルエンザ検査のビニールを切る。
「ついでと言ってはなんだけど、ここにながーい綿棒があるので、これをぐさーっとお鼻に突っ込みます。右と左と、どっちがいいかな?」
 それそれーと魔法使いのステッキのように綿棒を振るヤブに、男は多少冷ややかな目を向ける。
「……おじさん、どっち」
 だるさで半分目が落ちている少女は、もうなんの判断もつかないのか男のほうを振り返った。
「…………右のほうがいいんじゃないか」
「じゃあ、みぎ」
 がんばれ、と男が思うのも裏腹に、少女は終始静かにおとなしく鼻に綿棒を突き挿されていた。


「えらいね。静かに検査できたおねえちゃんには飴ちゃんをみっつあげよう」
 検査の結果、インフルエンザではなかったものの、熱がまだ上がり傾向ということで点滴を打ってもらった。時計はもう六時近い。
 みんなには内緒だよ、と言いくるめてヤブは飴を握らせる。手慣れた様子で少女の相手をしつつ、ヤブが男のほうを見た。
「おい、この年で泣き叫ばずにインフルテストやって点滴できるとか将来有望だぞ。お前どんな育て方してんだ、それともこの子が有能すぎんのか」
「どんな有望視だ。頭がいいんだよ。それにこいつは俺の飯の世話までしてるぞ」
「……それは逆にお前がもう少し有能になるべきでは」
 今日はおうちでゆっくりしてね、とヤブが頭をなでるのを尻目に、少女は男にもらったばかりの飴からふたつを渡した。
「なんだ、上着にポケットあるだろ」
 すると点滴でけろっとした少女は眉をハの字にしながら言った。
「おじさん、これ今日のばんごはん」
「……心配しなくても当番代わるから」
 ぷ、と後ろで控えていた看護師が笑った。


「お前が子供引き取るって言った時はどうなるかと思ったけどさ」
 ヤブはひとときだけ医者の仮面をはずす。そして少女に目を移した。
「たのしい?」
 主語もない文章に、少女は大きくうなずく。

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