ふたりのせかい

きみとよっぱらい

「おじさん」
 少女は頬を膨らませた。午後七時、でろんと伸びる男を見下ろして、肩をいからせて怒鳴った。
「そんなになるまでのまないでって言ったのに!」


 今日は遅くなるかもしれない、と朝、出がけに男は言った。仕事へ行くときだった。
 男の遅くなるというのは午後六時を回って帰宅する可能性を示している。少女が家にいるので基本的には午後五時頃には仕事を切り上げ帰宅するのが基本なのだが、ときどき付き合いとして週に一度ほど帰宅が遅くなる。
 遅くなるといっても深夜にはならないのだが、そういう日はたいてい男は夕飯を必要としない。朝か前日の夜のうちに、少女のために食事を支度してあるという意味だ。
 少女として毎日毎食でも一緒に食事をしたいのだが、そうはいかない。付き合いというものがあるのは理解しているし、遠くまで出るときやさらに遅くなりそうな時は少女を連れて行くこともある。男の仕事先は少女に理解があり、連れて行ってもらうときはむしろ可愛がってもらっている。
 しかし今回はそうはならないらしく、気をつけてね、と少女は男を見送った。


 その結果がこれである。
「ん、ん」
 憤懣やるかたない。少女の心は荒れ狂っていた。まるでモーセの前に広がる荒海のようだった。
「おじさん!」
 玄関にのさばったその屍を精一杯で揺らす。その腕は叩くレベルで荒い。
「そんなとこでいたらかぜひくよ!」
「んー」
「んーじゃないの!」
 それでも泥酔した男は動かなかった。そうそう酔って動かなくなる男ではないのだが、どうやら相当飲まされたらしい。
「おじさん!」
 もう一度呼んだが、男は微動だにしなかった。
 玄関で靴を脱いだまま意識を喪失した男を見下ろして、少女は諦めの様相を呈した。
「……」
 くるりと踵を返して廊下を歩き、一つ目の部屋のふすまを開ける。客用の布団とあまり使わないブランケットの中から薄手の毛布を引っ張り出し、少女はそれを引きずりながら玄関に戻った。
 全く同じ体勢で寝ている男を見つめ、ばっさあとそれをかぶせた。
 明日もしからだが痛いといってもそれは自業自得。知ったこっちゃないと少女はふんと鼻を鳴らし、男の頭にクッションを突っ込んだ。玄関で気持ちよさそうに眠りに落ちた男は、もごもごと寝言を言いながら夢の中に埋もれていく。
 そのまま男を放置して、玄関の電気はつけたまま、居間に入る。皿に盛られた豆腐ハンバーグを電子レンジに入れて、それから茶碗にご飯をよそう。男の夕飯は終わったかもしれないが少女の夕飯はこれからだ。
 少女は夕飯を作れる。しかし技術的な話で、年齢が年齢である以上そばに誰かいなければ台所に立つのは危ない。少女もわかっていて、男がいない日は男の作ってくれた冷めた夕飯をあたためる。
 男の作るごはんは優しい味がする。でもどこか、さみしい。


 歯を磨いているあいだも、様子をのぞきに行っても状況は変わっておらず、少女は嘆息した。
「おじさん……」
 呆れてものも言えない。仕方なくいつも寝るところに自分の分だけ布団を出して、ブランケットをかぶった。
 目を閉じる。考えを巡らせる――戸締りはした、ガスも切った、電気はついてる。まるで子供の考えることではないが、男がいない日の少女の日課だ。
 全部大丈夫、と確認したところで、ふう、と一息ついた。考えることをやめて、眠ることだけを視野に入れる。
 しかし寝ようとするたび、考えが邪魔をする。男が、いつものように隣に布団を広げていない――。
 いや、男は玄関先の廊下でぐーすか寝ている。だから問題ない、それに気がついたらきっと自分で歩いて畳にたどり着く。全身が軋むと思いながらもぞんざいに布団を敷いてなにもかぶらずに寝転がる。そのまま扇風機に腹を冷やして明日困るのだ。そこまでいつもと一緒だ。
 なのにどうしてか今日は胸が騒ぐ。となりにいないことがひどく不安だった。


「……んん」
 午前三時、玄関。煌々と明かりのついたフローリングの上で、男は目覚めた。
 目の前に蛍光灯が光っている。どうやら家には帰ってきていたらしい。
 腰が痛い。だいぶん早くには帰宅していたようで、からだはがちがちになっている。またやってしまったと男は思った。これを毎回やらかしては朝に少女に怒られるところまでがデフォルトになっている。
 上体を起こして頭をかく。ふあ、とあくびが漏れた。
 その瞬間、背後で人の気配がした。もぞりと動くなにか。
 ふっとさっきまで自分の頭があったあたりを振り返ると、カラフルなブランケットに全身くるまったみのむしがいた。
「……ほにゃほにゃ」
 寝言を言う大きなみのむしをまじまじと見つめて、どうしてこんなところにと首をかしげる。髪の毛がちょろっと出ているあたりをかき分けると、やはり少女の寝顔があった。
「おまえなんでこんなとこで寝てんだ」
 すやすやと気持ち良さそうに寝る少女を、男はふうと息をついてから抱き上げた。


 少女が起きた時にはベッドの上であったことは明確である。

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