ふたりのせかい

きみととくべつないちにち

「おじさん」
 パックの牛肉を手にとった男に、少女は声をかけた。
「そのお肉だめ。こっちのほうが安くておいしいからこっちにして」
「ハイ」
手渡されたのはオーストラリア産のこま切れ肉で、この間霜降りの黒毛和牛ステーキを買って帰ったら膝詰めで説教されたことを思い出して苦笑した。


 おじさん、今日の晩ごはんカレーにしよう。
 少女が珍しく自分に意見を聞かずにメニューを提案したのはその日の昼過ぎのことだった。昼食に男がきのこパスタとサラダを作ったそのあとのことである。
 そういえばしばらく食ってなかったなと男が言い、二日ぐらいは昼と晩はカレーになってもいいぞと続けると、卵とか鍋とかうどんでバリエーション考えるもんと少女は笑った。
 この子供は歳のくせに料理がかなりうまい。歳が歳なので一緒に作ることのほうが多いが、男はほとんど雑用ばかりで、切ったり焼いたり煮込んだり、味付けまでをほとんど一人でこなす。成長さえして身長と腕力さえつけばすでに問題なく生活していけるレベルだ。
 好き嫌いは多少あるが、基本的に野菜も肉も魚も豆類も好んで食べるので料理のバリエーションも広い。唯一料理で出して、我慢しいの少女がどうしても我慢できず食べてくれなかったのは酢豚のパイナップルだったのは記憶に新しい。
 しかしカレーの具材がまずほとんどなかったので、買い出しに行くぞと手を引いて車に乗りこんで向かったショッピングモールでは彼女の独擅場だった。
「あっにんじん安い! どうせ食べちゃうし三本セットお買い得」
 カートを押すのは男の仕事で、食材を選ぶのは少女の仕事である。男はもはや荷物持ちの財布と化していた。
「おじさん、カレーの具はこまかいのとごろごろとどっちがいいかな」
「細かいほうが応用効きそうじゃねえか」
「そうかな、じゃああんまりお肉入れなくていいね」
「かさ増しにこんにゃくでも入れとけ」
「やだ。水っぽくなる」
「ハイ」


「カレーのルーはこくまろの中辛と辛口でいいのか」
「うん。いっこずつね」
 少女はルーにもこだわりを見せる。必ず二種類以上のルーを混合する。そのほうが濃くておいしいのだという。確かにおいしいので特に気にしたことはないが少女の料理歴は気になる。
「もう買い足しないか」
「たぶん。冷蔵庫に牛乳あった?」
「また開けてないのが一本ある」
「コーヒーは?」
「ケースで買ったのがまだ」
 そっか、と少女は頷いてじゃああとはパンだけ、とパンコーナーに向かう。
「マーガリンロールとチョコチップスティックか」
「うん」
 少女の定番の二種類である。この二つのどちらかが食卓にあれば問題ない。
「食パンとジャム買ってもいいぞ」
「アヲハタのブルーベリーがいい」
「そういうところはちゃっかりしてんな……」
「だってはずれがないんだもん」
 じゃむじゃむ、と食パン横のジャムコーナーに足を踏み入れる。家にクラッカーがあったので、どうせそれとスライスチーズでカナッペでも作る気だろう。


 案外しっかり買い込んだので、カートの中のかご一つがまるっと山を作っていた。
「あ」
 レジに並んでいると、なにか思い出したのか男が声を上げた。
「なに、おじさん」
「おまえ、そこのお菓子、好きなの三つ選んでこい」
「……」
 指さされたのは三つ向こうのレジのそばの棚だった。その意味を察して、少女は顔をしかめた。
「おじさんやめる気ゼロだね」
「こればっかりはな」
 とっとと選んでこいと急かして、少女が持ってきたのは大袋のパーティーチョコレートとコンソメのポテトチップス、そしてソフトいかさきだった。
「おじさんいかさき好きでしょ」
「好きなの選べばよかったのに」
「ほかのはなんかいまいちだったの」
「そうか」
 ぽんぽんと頭を撫でる。そうしている間にレジが回ってくる。
「すいません、あと煙草をパーラメントの六ミリ……二十三番」
 お菓子これです、と少女の抱えたものを指差して、袋をもらう。このスーパーはすでにレジ袋の有料化が導入されているが、この煙草のサービス用にだけは無料で袋を一枚くれる。
 残りは買い物バッグに詰めて店を出る。仕方ないなあとくちびるを尖らせる少女と手をつなぎながら歩き、二人は車に乗った。


 家に着いて食材をどすどす切り刻んでいる少女のヘルプに入りつつ、しかしさほど手伝うこともなく縁側で煙草を吸っていた。
 しばらくして台所が静かになったので、のぞきに行くとすでに火の止められたカレー鍋にはふたがされ、炊飯器までセットされていた。帰宅から五十分、恐るべき手際の良さだった。
「できたか」
「うん」
 時計は四時すぎを指していた。
「ちょっと出かける」
「いまから?」
 さっきも出かけたのに、と不満げな少女が眉を寄せる。
「一時間で帰ってくる」
「いっしょに行かないほうがいい?」
 おしごと、と訊くので、いや、とだけ返す。留守番できるか、と問うとわかったと言った。
「一時間で帰ってこなかったらさっきのたばこ全部トイレに流すもん」
「わかった確実に帰る」


 蚊取り線香を焚いた。最近のライターはワンタッチでできる百円ライターが多い。男はジッポを使っているが、煙草のおまけやらでもらってくる百円ライターを捨てるに捨てられず、しまっている場所がある。そこから一本くすねて、緑にうずまくそれに火をつける。
 お前は触るなとよく言われているが、やろうと思えばコンロでも火をつけられる。べ、と舌を出してからライターをもとのところにしまった。
 畳、縁側、蚊取り線香。庭に植わったさわさわの木。少女はこの家が好きだ。耐震的にはがたがきているらしいけれど、工事なんかしてほしくなかった。
 ふにゃふにゃと煙がただよった。縁側に転がって、大の字になる。今日はズボンだから怒られない。
 雲が流れていく。少女はただ息だけをしてそのようすを眺めた。じじじっと蝉が飛んだ。今年もさわさわの木からたくさんの蝉が聞こえる。
「おじさぁん」
 まだしばらく帰ってこない同居人を呼んだ。理由を言わずに男が少女のそばを離れたのは初めてだった。
「なんでいないのぉ……」
 少女は目を閉じた。ちりりん、と青銅の風鈴が揺れた。


「……なんでふて寝してんだ」
 帰宅して、玄関の引き戸をあけた途端に静かすぎる違和感に肝を冷やして今に入ってくればこれである。すぴすぴと大の字で眠る少女はどことなくご機嫌ななめな寝顔である。
「あっこいつ線香つけたまま寝やがった」
 もう灰が半分近く落ちていた。家を出てすぐに火をつけたようだった。
 仕方ないやつ、と手に持っていた大きな袋を脇に置き、白い箱の入った袋もちゃぶ台に避難させて布団を引っ張り出す。
 ぱふぱふと敷布団だけ広げて、少女の脇を持ち上げて布団に転がした。適当に腹のあたりにブランケットもかける。
「こんなとこで寝てんなっつんだよ」
 せっかくケーキ買ってきたのに、と男は白い箱を持ち上げる。白いホールケーキにチョコクリームのホイップ、チョコのプレートには名前まで入れて。
 それを冷蔵庫に押し込んでから、もう片手に持っていた大きな袋の中身を出した。黄色と白のギンガムチェックの不織布に、ピンクの大ぶりのリボン。中身は特大のくまだ。少女ほどはある。
 布団のそばに袋のまま置いて、男は縁側に腰掛けた。特等席で、ジッポの火を焚いた。

inserted by FC2 system