ふたりのせかい

きみとあついなつ

「おじさん」
 外は蝉が鳴いている。畳の上に転がって、少女は扇風機を直撃に感じていた。肩甲骨まである髪はあられもなく散っている。
「あつい」
 ミーンミーンジーワジーワと蝉のうるさい十畳間の縁側に座り込む男に声をかける。
「おじさん、扇風機だけじゃ熱中症になっちゃうよ」
「うるせえ、金がねえんだよ」
 もとよりこの家にクーラーという文明の利器を設置できる設備がない。設置工事にウン十万持っていかれるのはよくわかっている。
「おじさんみたいのをニートっていうんだよ」
 それは嘘だ。少女は知っている。男はちゃんと働いている。ちゃんとしたところで働いているとは言えないが。
「……かき氷で我慢しろ」
 ふう、と紫煙を吐く男の傍らには煙草と銀色の灰皿。そばで吸うくせに、扇風機はちょうど少女を中心にして円の真反対にある。この男が優しいことを、やはり少女はよく知っていた。
「シロップはいちごがいい」
「カルピスの原液しかねえ」
 男の声に即座に反応し、がばっと少女はダイナミックに起き上がった。嬉しいという感情でも不満でもなく、驚愕の表情を浮かべていた。
「……カルピスあるの?」
「ある。知らなかったか」
「ぜんぜん」
 カルピスがあるなら言ってよおじさん、と少女は起き上がったまま勢い立ち上がった。ぱたぱたと台所へ走っていくその短いピンク色のワンピースははしゃいでいる。
 また紫煙を吐きつつ男はその背中を見つめた。カルピスではしゃぐのか、と物珍しく感じつつ、指に挟んだ短い煙草を灰皿に押し付け、よっこらと縁側から腰を上げた。
「おい、ワンピースのすそめくれ上がってんぞ」


 濃い目に作ったカルピスをちびちび飲んで、少女は縁側の外を眺めた。
 気象予報では今日は猛暑日で、最高気温が三十八度ほどになるという。午前中ながら、庭にはもう蜃気楼がちらちらしていた。
「あついね、おじさん」
「夏は暑いもんだろ」
 かろん、と男の持っているグラスの氷が揺れた。もうずいぶんグラスは汗をかいていた。男が飲んでいるのもカルピスである。
「だれかからもらったの」
 これ、と少女はカルピスに目をやった。
「なんでそう思う」
「おじさんがこんなの買うと思わないから」
 またちびりと口に含む。この年頃の子供はカルピスを至極大事そうに飲む子供が多い。
「……ジジイが送ってきた。中元だ」
「じゃあCMでやってる、あの箱にいっぱい入ってるやつなの?」
「マンゴーとかぶどうとかあったぞ」
「ほんと?」
 少女は目を輝かせた。よほど嬉しかったらしい、ほかはほかは、と急かしてくる。
「フルーツなんちゃらと、ももだかもあったか」
「ちょっとずつ! ちょっとずつ飲むから勝手に飲まないでね!」
「俺が飲むかよ」
 苦笑して、焦った声を出す少女の顔を見た。大きな目をこちらに向けて必死になっている少女が面白くて、男は苦笑を通り越してその場で吹き出した。
「俺は酒で十分だっつの」
 もともとあのカルピスだってお前が喜ぶだろうからってジジイが、と考えているのは男だけである。少女はあくまでカルピスを占領しようと必死だ。
 少女のグラスにはまだカルピスは半分残っていた。そんなに好きだったのか。


「あついねおじさん」
「おまえまたそれか」
 三分の一まで減ったカルピスのグラスをそれでも大事そうに包みながら、少女は縁側に座り続けている。頭にタオルをかぶって日除けをしているが、あまりいすぎると本当に熱中症になるだろう。
「おじさん、遊びに行こうよ」
 あついなあ、と頬にグラスを押し付ける少女がちょっと不憫になってきて、ついに男は折れた。
「それ飲んだら川でも行くか」
「行く!」
 わーい、と笑顔になる少女をひとまず縁側に残して、男はタンス部屋に向かった。水着と浮き輪ぐらいはほしいだろうと思ってのことだった。
 この夏の頭に買ってやった黄色のフリルの水着が確かあったはず、と引き出しを開けたところで、足になにかがまとわりついた。
「……おい、そんなとこにいたら蹴飛ばすぞ」
「そんなことしないもん」
 右脚に抱きついているのはほかでもない少女だった。よほど嬉しかったようで、ごきげんだった。
「ありがとうおじさん」
「はいはい」
 ほら水着、と手渡してやり、そばにあった六十センチの浮き輪と空気入れを一緒に引っ張り出した。
「着替えてこい」
「おじさんは着ないの」
「俺はいい」
 近所にある見知った川。どうせあの川は深くない。今履いている半パンで大丈夫だ。
「浮き輪膨らましとくからその間に泳ぐ支度してろ」
「うん。おじさん、ゴーグルも出してね」
「はいはい。タオルとパーカーも出しとくからとっとと着替えてこい」


「おじさんあんなにへたくそだったのに」
 耳より少し上のところにくくってやる間、少女はおとなしく座っている。
「じょうずになったよね」
「そりゃおまえ、鬼のようにしごかれりゃ誰だってうまくなる」
 川に入るのでいつものお気に入りのカラフルなビーズのヘアゴムではなく、水着に合わせて蛍光イエローのシンプルなヘアゴム。
 こうしてくくってやるのももう何度目か。いろんなパターンをねだるので、もう男は十種類近く結い方を覚えた。
「お昼ごはんどうするの」
 時計を見やれば十一時過ぎである。夕方には帰るとしても、朝が早い少女の生活リズム上、川に入る前に食べておいたほうがいいような時間だ。
「カップラーメンとかでもいいよ」
「動くな、ゆがむぞ」
 こちらを向こうとするのでぐいと顔を正面に戻す。う、と少女が口を尖らせた。
「昼飯は冷麺でも食いに行く」
「上海亭の冷麺!」
 この少女は年に似合わず激辛のものを好んで食べる。川へ行く道のそばにある上海亭の冷麺は辛いので有名だ。
「おまえ好きだろ」
「ひさしぶりに食べる!」
 やった、とはしゃぐのはさながら年相応である。


 水着の上にパーカーを羽織り、浮き輪を肩にかけて少女は前を行く。
 久々の冷麺はいたくお気に召したようで、レジでサービスにもらったレモン味の塩のど飴を口に含みながらスキップしている。
 タオルと帰りの着替え入りのバッグを持っているのは男のほうだ。さっきまでは少女が浮き輪ではなくバッグを持っていたのが、川が見えた瞬間に強引に交換させられたのだ。
「こけるなよ」
 わーいとはしゃいで水の中に入っていく少女を見守りつつ、小さめのビニールシートを石の少ないところに敷く。
「おじさん、一緒に遊んで!」
 すでに全身ずぶ濡れになった少女がこちらを向いて笑った。せっかく塗った日焼け止めももう落ちたに違いない。
 水面に揺れて、少女がちらちらと光った。
「俺は着替えがねえから――こら、おまえ水かけ……っやめろ! おい!」

inserted by FC2 system