引き裂けないびろうど

 恋だ愛だ、そんな安い煙草の煙みたいにかたちのない感情は過去に置いてきた。
 正しいことなど知りもしない。間違ったことを、もう二十余年近く――もうそんなになるかとさえ思う――続けてきたのかもしれない。

       ◇

 腹の奥が燃えるように熱かった。熱以外のなにものも残らないその老いた腹をさすりながら、ベッドから起き上がる。
 まだ興奮が冷めやらない。脇に転がったひとつ体格の小さい男が、起きるのか、と言わんばかりの目でこちらを見る。
「わたし、帰らないと」
 揺さぶられた腹はその振動を引きずっている。震えと熱が目覚めたまま、翌日を楽しみに待つこどもの深夜のごとく、興奮で眠れずに冴えている。
 しかしからだとは裏腹に、言葉尻は冷えていた。
「あのひとが待ってるかもしれないから」
 それはあまりに望みの薄い希望だった。希望と言うには大仰かもしれない。それほど夢のある話ではなく、どちらかと言えばネガティブ。
 愛なんてどこにもない。知り合いというには約束の紙切れが多く、しかし夫と言うには他人だった。
 夫という存在。それはシュールで、などなく、しかし今の自分を支える、皮肉な存在。
 男は小さく鼻で笑ったあと「そう」とだけ言い、仰向けに転がった。剥き身に腹から下をシーツで覆い、男はそのまま眠る体勢に入る。
 そのまま泊まっていくつもりのようだった。いつものことだ。こんな時間に帰るのは都合が悪いからと、男はいつも眠っていく。
「じゃあ、また」
 親しんだいつものビジネスホテル。夜も更け、ビジネス街の片隅にあるこのホテルの周囲は、静かになって久しい。

       ◇

 女を抱いた夜、強い爽快感がこの身を支配する。達成感、満足感。そういったプラスの感情が、気だるいからだを眠りに誘う。
 とはいえ、二度三度とあの腹の中に熱を流し込めなくなった。年齢のせいだろうというのはわかっている。昔はほとんど夜が明けるまでやっても足りないくらい飢えていた。
 今では一回をだいじにし始めて、男として痩せたなと思う。数度女が絶頂し、それがきつく締まるのに引きずられそうになりながら、それでもさみしさがぬくもりを求めるように、決まった日に抱く。ニコチンがくせになっているみたいにやめられない。
 こうして寝るようになって、何年経つだろうか。考えたこともないけれど、もうずいぶんになる。
 どこに触れられると気持ちいいのか、なにをすればいいように啼くのかもすべて憶えている。一生妻にはならない女。
 軽くシャワーを浴びてから眠りたい。重いからだを起こす。力をなくした自分の中心がしおれているのを、無感情に見る。古くとも清掃が行き届いたシャワー室のドアを開け、カランを回した。
 水が湯になるのを待ちながら、排水溝を見た。流れていく水に、記憶を重ねる。何年も前、このぬくもりを得るまでに、そう時間はかからなかった。気付けば彼女を抱いていた。はじまりの記憶は遠くなり、排水溝に消える水のように忘れていく。
 湯気が立つ筋状の湯を足元からかける。いきなり被るには、年齢も気温もつらい。冷えた指先をぬくめてから、女の愛液やらが少し乾いてぱりついた股間を洗い流す。
 女にのしかかり、ほぐしきったその中心に挿し入れた感覚が蘇った。相変わらず濡れやすいけれど、年を追うごとに多少ローションが必要になった。ぐちゃりといやらしい音を立ててめり込んでいく己のいちもつも、昔ほどかたくならなくなった。
 それでも昔と同じ快感を得続けている。切っ先が触れれば少しくちを閉ざし、しかし押し込めばやわやわと迎え入れる。この肉棒のかたちを、あの蜜壺も憶えている。
 包み込む粘膜の温度は、いつも高い。奥まで挿入するあいだ、力が入るのを抑えて広げようと試みる、その動作は食むようだった。呼吸とシンクロするその一挙手一投足は、この腰の炎に薪をくべる。
 最奥まで辿り着いたとき、自分が取る動きはふたつにひとつだ。押し入ったのを引き戻してめちゃくちゃに突く。あるいはそのまま動かない。
 若いころは前者が多かったが、最近は後者の方が多い。体力がどうこうの問題より、後者の方が純粋に楽しい。女がなかにあるそれに反応して、勝手に昇りつめていくのだ。
 女自身でしているはずの局部の力の抜き入れに、勝手に自分で感じるらしい。見ているこちらとしてはこれほど楽で愉しいこともない。力を抜けばからだが快感に油断し、力を入れれば強烈に雄を感じて喘ぐ。
 なかが温まればもうこちらのものだ。おもしろいほどに喉を鳴らす箇所を、先端でくすぐる。熟す期間をとうに越えてもなおいきやすい肉体は、この手の中で腰をうねらせる。
 首筋から肩、胸、くびれからへそを辿り、腰骨を撫でる。律動に合わせながら親指で浮いた骨盤をこすってやれば、くすぐったげに腹をへこませて、また呻く。
 鼻にかかったその呻きが、意外に嫌いではなかった。自分がまだ男として成立しているという自尊心が崩れないからかもしれない。
 女が我を忘れ始め、呼吸が荒くなればペースを落とす。腰骨を抱える手のひらを滑らせ、下腹を撫ぜる。真下にいるはずの己の怒張が内壁をこするのがわかるような気がして、いつもついやってしまう。内腿を脇に抱え直せば、また少し深まる接合部に女がのたうつ。
 いくときに太腿を締める。それはおそらく彼女自身も気付かない習性のようなものだった。多くの女が同じことをするが、彼女は坂道を上るごとにやわやわと締めつける。ことさら攻め立てて上体を重ねていれば、開脚したその肢がぴったりと触れる。挟み込まれれば動けなくなるが、それもまたたまらなく高ぶる。小刻みに揺らしてやれば電気が走るように跳ねるのが彼女のお決まりの『一回目』だ。
 目を閉じてこれほど情事を思い返しているのに、やはり気持ちばかりでからだは燃え上がらない。押し入る気力はあれど、中心は無反応だった。枯れたものだとつくづく年を感じていやになる。男というものは一生女を求めて元気なものだとばかり思っていた、若かりし自分に教えてやりたい。

 もうそろそろ自宅に着いたころだろうか。女が自分の名前を呼んでいるような妄想を楽しんでから、ひとつ深呼吸。いい加減眠らなければ、翌日がつらい。

       ◇

 腹の奥が静かに熱くなるようなセックスは、帰り道、深夜料金で走るのを掴まえたタクシーの中で髪を整えながらいつも思い出す。
 脳裡に、今日の自分が俯瞰で映った。仰向けになったこのからだに、男は挑んでくる。横に流れる乳房を揉みしだき、時折熱い吐息をその谷間にじんわりと染み込ませる。ゆっくりと抽挿を繰り返す男根は、いいところを憎いほど熟知している。
『ん、アァ……ッ』
 声を抑えることはしない。抑えるほどの大きな喘ぎは、たぶんもうこのからだからは出ない。しかしあられもなく、快感にのたうつ悦びをおぼえたこのからだは、電流が走るように痙攣する。
『いや、――ッそこ、』
 いい。もっと。怒張に与えられるまま、はしたなくこの口は最果てを目指す。ときに昇りつめるのをいやがり、長引かせては突き詰めない快感を引きずる。
 情交のあいだじゅう、エクスタシーはつねにこの腰を撫でている。年甲斐もなくその手の中で踊り、声は震え、陰部は涙を流す。いくつになっても、このからだは欲情を忘れない。
 本能は気持ちのいいことだけを求める。アドレナリンが耳を塞いで、閉じた世界を存分に泳ぐ。
『あ、あ、……!』
 達する際に無為にスピードを上げ、粘膜をいやにこする。きついのかもわからないまま締め付け、薄い膜になかに果てる鼓動と同じその感触を無感覚に楽しむ。
 ふたり、絶頂のタイミングを合わせる工夫などもうできない。この身が疼き破裂するポイントを知り尽くしたその手管に抗うすべなどない。年を追うごとにテクニックを上げ、反比例するように遅漏になる男が達するころには、もうこちらは半分意識がない。泡がはじけるように、快感がそこらじゅうで散っていく。
 激しさを失い、ベッドが弱くきしむのと、呼吸に混じるうわずったかすかな嬌声だけが部屋の中にこだます。
 年を重ねて、若いころのような交合は今はもうない。なのに惰性でもなく、ある種激しく求めて、このからだは決まった曜日に疼き出す。
 幾星霜、夫ではない男とセックスをする。たるんだ腹と色気を失ったはずのこのうなじに、あの男はいつも熱だけを残す。痕は残さない約束を、お互いもう四半世紀以上守り続けている。
 結婚した男と続けられない関係を、結婚しなかった男と交わし続けている。飽きるほど繰り返してきたはずなのに、毎度ぞくぞくする。綱渡りのような感覚がやみつきになって、この関係を楽しんでいる。お互いに、この悦楽はきっと死ぬまでやめられない。

 自宅に着く。運転手にカードを手渡し、決済を待つあいだ、あれほど欲しがり、求め尽くしたこの下腹がまた熱を持つのを感じた。
 みだらな自分を思い出し、夜の情事を振り返るほど、このからだは浅ましくも従順にエロスを求める。
 欲望のおもむくまま、このからだが喘ぎ鳴くまま、男の熱情を奪ってきた。なのにまだ欲しい。これは男への愛でもなんでもなく、ただの肉欲。
 誰でもいいのかもしれない。秘密を共有できるのがあの男だというだけで。
 自宅はもう目の前にある。わかりきっていた通り、ひとけはなかった。真っ暗な玄関、鏡で見なくてもわかるほど、顔はいやらしくゆがんでいる。
 口を手のひらで押さえる。唾液があふれてしまうような気がした。うしろで重く音を立ててドアが閉まるのを聞いてから、脇の壁にもたれる。ずるずると崩れ落ち、帯びた熱がベッドでいかされて以来幾度目かの頂上を勝手に目指す。
 靴を脱ぐ余裕もないまま、達った。うずくまるからだが、貫いてほしそうに熱を手放さない。ぐるぐると渦のようにこのからだにのなかに居座り、暴れる。
 ほんの時々、こんなことになる。あれほど抱かれて、激しく達したのにまだ足りない。このまま玄関にいるだけで、何度でも達ける気さえした。
 下着がぐちゃぐちゃに濡れているのを感じる。気持ち悪いのに、もっとあふれるのがわかっていて動けない。今夜目覚めた『わたし』が、女を忘れられない。
 ――足りない。もっと欲しい。ぐちゃぐちゃに突いて、なにもかも頭から飛んでいくぐらい、もっとめちゃくちゃにして。

 この世界に神などいない。いるなれば、こんな狂気は生まれない。裏切りと悦楽の夜は、こうして二十余年以上続いている。

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