わたしはかばんを開けた。紙の切れ端が見えた。このお守りさえあれば、あのひとがずっとそばにいるような気がした。
あのひとと出会ったのは十年前。わたしはまだ二十四で、あのひとは二十八だった。
見るからに好青年なあのひとは、仕事もバリバリこなして、とても格好良かった。対してわたしはまだおっちょこちょいの抜けきらない小娘だった。
告白はあのひとからだった。わたしは二つ返事で返した。ありがとうと言って抱きしめられたあの力強い腕を、わたしはまだ覚えている。
四歳年上の恋人は、わたしを力強く振り回した。デートは映画に遊園地、スキー、温泉とどこへなりと連れて行ってくれた。
旅行を真正面から楽しんでいるのはあのひとだった。わたしはそうやって楽しんでいるあのひとを見ているのが楽しかった。
結婚しないか。そう言われるのも時間の問題だった二十七の夏。周囲の予想通り、石のついた指輪をわたしの前に差し出した。
それにもわたしは二つ返事で返した。うれしかった。これでわたしはこのひとのものになる。このひとは、わたしのものになる。
何度目とも知れないくちづけをして、わたしたちは一緒に暮らし始めた。
わたしにはお気に入りの香水がある。ばらのような香りがする、赤みがかった香水。
いつも首筋に少しと、足首にもつける。
この香水をつけると、なんとなくあのひとがそばにいるような気持ちになれる。きっと、あのひともこの香水が好きだと思う。
きっとわたしを思い出すと言うと思う。わたしとあのひとのにおいの趣味は似ていた。芳香剤やその手のものはいつも決まって意見が合致した。
からだじゅうをあのひとに包まれている気持ちがした。
かばんの端からは、お守りが見え隠れしている。
結婚して、わたしは仕事を辞めた。今まで同じ職場にいたぶん、あのひとと過ごす時間は減った。
それでもあのひとは真面目に毎日帰ってきて、まだおいしくもない夕飯を一緒に食べてくれた。
となりに眠るあのひとが、こどものようにあどけない表情で眠るこのおとこのひとが、どうにもいとおしかった。
いとおしくて、朝になればまた出て行ってしまうことが、どうにもさみしいと思った。
ベッドは香水の原液のにおいであふれていた。濃いばらの香りがした。
わたしの全身からもきついくらいばらの香りがした。肺の奥までいっぱいに吸い込んだ。
彼の左手を持ち上げた。ばらばらと指がきれいに落ちる。そこから香水がこぼれ落ちた。ぼとぼとと滝のように落ちる香水がもったいなくて、そばにあったカップにそそいだ。
注ぎ切ってから、落ちた指のひとつを持ち上げた。いつかわたしの奥をひらいた人差し指だった。そのそばには、結婚指輪をはめた薬指が落ちていた。
そのふたつを、財布から取り出したいつかふたりでひいたおみくじで熨斗のようにくるんだ。まだ赤みのさしたその肌は、いい香りがした。
さっきまであのひとを香水まみれにしていた包丁を取り出す。あのひとのばらの香りがするマグカップに、わたしのにおいを混ぜた。ぱたぱたとこぼれおちるそのにおいが、あのひとに混ざっていく。狂いそうなほどいい香りがした。
かばんの奥、お守りが見えた。紙にくるまれたそれを、わたしは肌身離さず持ち歩いている。いつでも触れ、口づけることができる。
家ではあのひとが待っている。わたしとあのひとの香りが混ざったばらの海で、あのひとはわたしを待っている。
いつでもどこでもあのひとといっしょ。すべての部屋にあのひとがいるもの、さみしくないわ。
今日は肉じゃがを食べさせてあげる……。