殺さなければと思った。
この女さえ殺せば、わたしは幸せになれるのだと、手に持った包丁を握りしめて、思う。
殺人なんて知ったことではない。わたしがこれまで生きてきた人生には、わたしなんかよりもっと罰されなければいけない人間がたくさんいる。ごろごろいる。この世には世間一般でいうところの「世間一般」のひとたちが思っているより、悪い人間であふれている。
皮肉だと思う。どうしてわたしのような人間ばかりが、罰されなければいけないのでしょう。
どうしてわたしのような人間ばかりが見つかるのでしょう。
もっとうまくできたはずなのに、どうしてこううまくいかないのでしょう。
あのひとのことをもっと罰してほしいのに、わたしばかり、わたしばかり罰されて、わたしばかり、わたしだけが。
わたしだけが!!
この女さえ殺せばわたしは救われるのに、この女さえ、この女さえ。
「やめて、いや、ころさないで」
女はうわごとのようにそればかり繰り返す。女はたすけてとそればかりを繰り返すけれど、わたしのことも救ってくれないこんな世の中がおまえごときにどうして振り返るというの?
「いやよ、たすけて、ころさないで」
笑えてきた。そのことばは昨日までわたしを守ってきた唯一の呪詛だ。おまえみたいな女が言っていい言葉ではない。
いい感じにテンションが上がってきた。アドレナリンがスピードみたいに体を駆け巡る。そういえばこの女は薬をやっていただろうか。手が震えて目の焦点があっていないのはそのせいだろうか。
「やめて、おねがいだからころさないで、ねえ、おねがいだから」
助けてほしかったのはわたしだ。何万回その場所にわたしが立たされたかも覚えていないくせに、たかだか一回くらい立たされたぐらいでそんな弱音を吐くなら首から足から体の中まで全部洗って出直して来い。
おまえが吸った煙草の本数をわたしは知っている。おまえはわたしのからだについたやけどの跡を知らない。
おまえがわたしに打った薬の本数をわたしは知っている。おまえはおまえが薬に費やした金をだれが稼いだか知らない。
おまえはわたしを誰だか覚えていない。わたしはおまえが誰だか覚えている。
いまのわたしは薬が効いているんだろうか。とてもたのしい。
気持ちが高揚している。たのしい。おまえをここから消し去る権利を、あたしだけが持っている。だれにも邪魔させない。ここにいるのはわたしとおまえだけだ。
たのしい。たのしい、こんなに幸せな人生ならもっと早く楽しみたかった。
楽しめなかった。この女のために、わたしはもう何年失ったのだろう。
たすけてとおんなはまだうめいている。おまえなど誰も助けに来ない。
楽しい真夜中だ。血祭りパーティーといこうぜと、わたしの中のレヴェッカ・リーが微笑む。
この狭い部屋の命運が、わたしに託されている。この六畳二間の狭い部屋の、これから先の未来が。
「さよなら」
わたしはこれまでないくらいに微笑んだ。これで解放される。
おびえて抵抗もできない醜いおんなに、わたしは一突きにナイフをおしつけた。
「さよなら」
わたしはおまえの名前を知らない。おまえはわたしの名前を知っている。
最後までおまえは、わたしの名前を呼びすらしない。
母親という肉塊を、わたしは侮蔑と恍惚の表情でみつめている。
ああうつくしい、わたしと似通ったきたない血。