死んだ、そのあとで

20180524 某氏へハッピーバースデー

 幼いころ、母はなにかにつけ、カレーを作った。家に帰ってきた日は必ずカレーを作り置きしていた。
 細切れ野菜のミンチカレーの日もあれば野菜ゴロゴロ豚バラカレーの日もあったが、往々にして大鍋に三日分は優にもつくらい作った。
 母のカレーはうまかった。いい感じにとろりとしたルー、炊き立てのつるつるした米にやわい根野菜。
 盛る器も飴釉の平皿と決まっていた。

 母が作るカレーの日は、度を過ぎた気まぐれを象徴しているようで、私はとても嫌いだった。

       *

「ミュイ」
 私は完璧超人に声をかける。ソファに腰かけ、新聞に穴が開くほど凝視していたミュイは私を弾丸のごとく振り返った。
「……お嬢様。おかえりなさいませ」
「びっくりしたわ。あなたでも気付かないことがあるのね」
 立ち上がるミュイはいつもの正装だった。足首までのつややかな黒の放射ライン、白のエプロン。彼女は年中長袖だ。
「いいえ、いいえ……いえ、気付きませんでした。窓からお入りになったのですか」
「……そんなにお転婆破天荒に見えるの?」
 はあ、と私はひとつ息をついて、目で向こうを見やった。キッチンに目を合わせるか合わせないかのところでミュイは立ち上がった。
「お嬢様、いつもの紅茶でよろしいですか」
「うん」
 ミュイが立ち上がったそのソファに今度は私が腰かけ、キッチンに入ったミュイを目で追う。
 彼女は短く、少しすそを刈り上げたショートヘアを揺らすでもなく、静かにキッチンに入る。
 水の音、水がステンレスを打つ音、鉄同士がこすれる音と同時にコンロが火をともす音。彼女に淹れさせた紅茶はぴかいちだ。
 やがて白い湯気を立てる紅茶が目の前にやってくる。一口含んだ。同じ紅茶なのに、どうしてこうも違うのだろう。
「ミュイ、今日は」
「残り二時間を切る具合となっております」
 時計は五時半を指していた。なるほど、日に日に短くなっている。どうりで様子が妙なはずである。
 もう一口含んで、ミュイを振り返る。
「もう休んでかまわないわ。新聞、持って行っていいから」
「お嬢様」
「どうせもう夕飯も作っているんでしょう。一人で食べられない年齢ではないわ」
 ミネストローネの匂いがする。ミュイの得意料理だ。あの独特の赤色が食欲をそそる。
「ですが」
「大丈夫よ。風呂にも一人で入れるし、皿洗いだって、洗濯だってできるわ」
 私は少しだけ胸を張ると、では、とミュイが目を伏せた。
「本日はこれで下がらせていただきますが、なにかありましたらなんなりとお申し付けくださいませ」
「はいはい、山火事でも起きない限り起こしたりしないわ」
「泥棒やボヤでしたら私など捨て置いてお逃げくださいませ」
「そんなことにはならないよう元栓も戸締りもやっておくから」
 ほら、と背中を押す。若干名残惜しそうに出ていくその背中が、とても遠く見えた。

       *

 母の仕事は研究だった。なんの研究だったのか、くわしいことはなにも知らない。ただ母が、その『業界』では名の知れた人間だったことはよく覚えている。
 発展目覚ましいこの時代に、母は毎年のように『発明』を繰り返していた。朝早く出て夜遅く帰っているのかすらわからない生活をしていた。もしかすると帰ってきた日数のほうが少ないのかもしれない。
 幼い私は三歳まで雇われていたシッターの手を離れ、もはやひとりで生活していた。自分の世話は自分でこなし、料理も勉強もなにもかもを必死で回した。
 ネグレクトに近かった母など捨て置き、自分が死なないよう必死だった。貧乏なわけでもないのに、幸せの意味がよくわからなかった。
 冬になると近所じゅうぴかぴか光りはじめた。中ではにぎやかに夕飯を食べているような声が聞こえる。年を越えれば花火が打ちあがった。家のドアを開ければ静かで暗いいつものフローリングがあった。
 さみしいと母に言うこともないままに迎えた七歳の秋、母が死んだ。脳卒中だった。職場で倒れた母の意識が戻ることはなく、死に際にも間に合わないまま、母は逝った。
 実家からは縁切りされていた母の娘である私は行き場所がなかった。本当に一人になってしまったと思った。家の静けさが増した。その晩、眠れなかった。
 それから一週間を同じように過ごして、迎えた七日目の夕方、誰も来ないはずの家のチャイムが鳴った。ぼさぼさ頭に寝巻でドアを開けた先に、女がいた。
 誰と問うと、女――ミュイは「あなたのお母様のダッチワイフです」と言った。

 生気のない女だと思った。ソファに腰かけさせ、コーヒーでも飲むかと訊くと、飲めないたちなので、と言われる。水を出すと、ミュイは苦笑いした。
 その苦笑いが私にとってミュイの初めての感情表現だった。ああこの女、感情もちゃんと出すのか。
「母の、……なんだったかしら?」
「ダッチワイフです」
「そう、そのダッチワーフ、なのに、どうして来たの?」
 家に上げておきながらも見知らぬ女を前に、ちびちび水を飲む私はおおよそ化け物のような見目だった。それはそうだ、三日は風呂に入っていなかった。しかし後から考えてみれば、しかし異様にくさい私やその家の中でも、ミュイはいやな顔一つしなかった。
「……あなたのお母様とは、二年ほどのお付き合いになりました。ですがなにひとつ存じ上げませんでした、あなたの存在も、それを感じさせないほどご自宅にお帰りになっていないことも」
「……それがなんだっていうの」
 一口も口に含まれない水を見つめながら、その時の私はなんだこいつという目でミュイを見ていた。
「……お母様の代わりにわたくしが」
「結構です」
 さえぎる強さに、一瞬ミュイがひるんだように見えた。
「私に知りもしない他人と一緒に住めっていうの? 私今までも一人で暮らしてきたのよ。それを一緒になんて、……泥棒と住むほうがましだわ」
「ですが」
「結構だと言っているの、母と仲が良かったかもしれないけれど、それが私と仲がいいことになるなんて都合のいいことは考えないで」
「いいえそんなことは」
「そんなことがないならこんなことになるの?!」
 口の回る娘だった。一人で暮らして、隣人たちから散々皮肉られたからか、そういうことを言うのには慣れていた。

 らちのあかない話をするうち、居間の時計が低く鳴った。夜の九時になっていた。
「……もう夜だわ。女の人が夜道を歩くのはいけないと存じ上げていますから、客間をお貸しします。明日朝いちばんに出て行ってくださいますか」
「いいえ、わたくしはここに住みます」
 なおも強情に言い続ける女に、私はほとほと疲れていた。
「話を聞いていたの、出て行けと」
「あなたのお母様からの、最後の遺言ですから」

 彼女のいう意味も分からないままに、私は夕食もとらずに部屋へ上がった。
 布団をめくり、明日の朝のご飯を考えながら潜り込む。今日はよくわからないやつが向こうの客間で寝ているから、油断ならなかった。この部屋の鍵はかけているが、どこをあさりだすかわからない。耳を澄ませているうち、向こうから足音が聞こえた。
 やっぱりなにか企んでいるんじゃないの。澄ました顔してあの女。七歳にしては言葉が汚かったが、まあおおよそそういうことを考えていた。
 するとノック音が聞こえた。この部屋のドアをたたいていた。
「……なんですか」
「充電を、してもかまいませんか」
「充電?」
「家主に許可を頂かないといけないことを忘れていて、申し訳ありません。わたくしは、日に一度バッテリーを充電をしませんと明日動けませんので、……停電は致しませんと思いますが」

       *

 稼働時間十時間弱。それがミュイの今の限界値だ。残りの時間を充電に費やしてもここまでしかもたない。
 この家に来た当時は一日十八時間稼働できたものだが、もう十余年ほどをこの家で過ごして、おそらく耐久年数を大幅に越していた。
 見た目もコアも人間とたがわない、ここまでの高性能を保持しながら、よくもっているほうだと思う。
 今でこそ起きているが、私は知っていた。朝五時から起きて私の身支度を手伝い、送り出してから午後八時まですべての家事をこなし、そこから二時間ほど寝直さなければ私の帰宅まで充電がもたない。それでも七時ごろには充電に入ってしまう。入らなければ次の日に充電が追い付かない。
 母の『発明』として生まれ、母のダッチワイフとして二年を生き、それからは私のメイドのように過ごしてきた。常に誰かに使役され続けるこの女の幸せがどこにあるのだろうと最近考えるようになった。
 彼女がこの家に来て数年は、私のことよりもこの女のほうが母に選ばれた理由はなんなのか、私よりもこの女のほうが幸せに包まれたのはなぜなのかと無為なことを考えていた。けれど違うのだ。
 この女はダッチワイフだった。わたくしは人ではありませんから恋人ではありませんとミュイは言ったが、そういうことではないのだ。
 ミュイはつねにひとのために『生きて』いる。つねに稼働し続けているのだ。

       *

 月明かりがひときわ明るかった。
 充電中で、意識もなくコンセントのそばから離れない彼女を、私は見下ろしていた。
 毎朝五時に目を開き、自分でコンセントを抜き立ち上がる彼女を思い浮かべながら、まだ充電が半分ほどしかないであろう彼女のそばに膝をつけた。
 月明かりに顔半分がキラキラと光っていた。死んだように眠り続けるその顔に、手を添えた。
 死んだ母の肌と同じ温度だった。最後まで研究者として生きていた母と同じ温度だった。
 今ここで彼女のコンセントを抜くのと、私が首を切るのとどちらが正しいのだろうと思った。社会的意義とかそういうものをすべて取っ払って、そうして考えてどちらが正しいのだろうと。
 ここで私が彼女を失って生きていけるだろうか。彼女は十時間しか稼働しない中で、ちゃんと自分のために生きていけるだろうか。

 人ではないものとして生まれ、人とは違う生き方を選び、また強いられ、そうして生きてきた彼女をなかったことにしてしまう私は、正しいのか。

       *

 きっと彼女はまた明日も五時に目が覚める。またいつもと同じように自分の口には入らない料理を作るだろうか。
 もしかするとこの家から出て、なにか新しい幸せを見つけることができるかもしれない。
 なにもわからない。ただ、彼女の幸せを祈ることしか。

 母の言いなりで暮らし続けたこの家から、彼女が解き放たれますように。

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