マルロクサンヨン、あなたの目の前

エブリスタから転載、南海電鉄コンテスト参加作品 2017/10/08

 0634
 吉見ノ里、吉見ノ里です。ただいま停車中の電車は、区間急行なんば行きです。次は羽倉崎に止まります。

 午前六時三十四分発、四扉車六両編成の区間急行なんば行き。
 和歌山市方面から出発し、泉佐野まで各駅停車したのち、空港急行と同じく春木駅に停車する急行列車になる。なんば発も同様に、泉佐野で切り替えとなる。
 マルロクサンヨンは早朝二本目の区急で、一本目は六時ちょうど発になる。本来泉佐野駅で乗り換えを必要とするこの鈍行駅で、乗り換えなしで急行化する区間急行は貴重だ。
 こんなことは言いたくないが、朝の電車はさながら戦争だ。ラッシュ前とはいえ基本的に席は埋まってしまっている中で、どのサラリーマンが――もちろん学生や女性だって乗ってるけど――ここから一番近い駅で降りるかを、乗り込んで一秒でトトカルチョする。勝ったら座席ゲット、負けたら三十分強を立ちっぱなし。もちろんセルフトトカルチョなので勝っても負けても利害は自分一人にかかる。
 ちなみに戦績としてはだいたい負けている。わたしは天下茶屋まで乗るので、おおよそ天下茶屋までスマートフォンを触るか本を読むか、音楽を聴いて立ち尽くすのみだ。正直景色も変わり映えしないし――最近は羽衣駅が改装していて、それの進捗見物は楽しいけど――、朝焼けがきれいな時期でもなくなってきたので、大した面白みはない。
 最近は上司から彼氏を作れと訳のわからんいちゃもんをつけられてほとほとうんざりだ。バキバキに割れたスマートフォンや断固として履かないスカート、終わらない仕事に無駄な残業、そんなことならいくらでも言ってくれてかまわない。いくらでも言ってくれてかまわないが、コミュニケーションのためにとか仕事のためにとかいう意味不明な枕詞をつけてからの彼氏を作れ発言。理解できる枕をつけて、識別可能な現代語を話してほしい。あまりにもうざすぎて最近は妄想彼氏でも作って指輪をはめてやろうかと思う次第だ。結婚していないとわかっていても、頭のおかしい女という理解はしてもらえるはずだ。


 彼氏なんてめんどくさい。男の考えてることがよくわからない。正直少しこわい。
 言いしれないおそろしさがある。たまに電車で席を譲ってくれるし、優しい面があるのは人間みんな一緒だ。でもなんとなくおそろしい。能面みたいだ。
 朝のトトカルチョはそんなわたしのちょっとした楽しみだった。憂鬱な通勤、早朝から少し疲れる脚。その鬱屈をナイナイするためのスマホゲームみたいなもの。

 ――じつはそのトトカルチョが、ここしばらく連戦連勝している。

 というのも、泉大津で乗り換えていく青年を見つけてしまったからだ。ひょろっとのっぽな印象で、黒染めに透ける茶髪。年はおそらくわたしと同じくらいか、少し下。学生っぽい。
 スマートフォンではゲームばかりしていて、つながったヘッドホンはなぜか耳から外して首にかけている。岸和田あたりまで居眠りをして、岸和田につくとぴこぴこくるくるとゲームを始める。
 黒縁の眼鏡が軽音楽部的やんちゃな雰囲気を出していて、なんとなくあほっぽい。もみあげの上あたりがいつもハネているのに気付いていないようなので、観察力ない系のあほかもしれない。
 最近は彼さえ見つければ安定して十分程度座れるので、車両を変えていろいろ探すのをやめた。基本的に毎日その電車の同じ車両のだいたい同じあたりに乗っていて、彼の前に立つと百パーセント泉大津天下茶屋間は座れる。
 トトカルチョが八百長になってきて、少々面白みは減ってしまったけど、座ってちょっぴり居眠りできるのはなかなか心に余裕が生まれる。ありがとう青年。ありがとう寝癖。

 0654
 泉大津、泉大津です。普通車なんば行きをご利用のお客様は、向かいのホーム4番乗り場に停車中の電車をご利用ください。次は羽衣に止まります。左側の扉が開きますので、ご注意ください。

「どうぞ」
 また彼が降りていく。すっかり覚えられてしまったようで、泉大津に近づくと少し早めに譲ってくれるようにもなってしまった。さすがにそろそろ気恥ずかしくなってきて、車両を変えてまたトトカルチョをしようかな、なんて思っていたのだが、その日はいつもと少し違った。

 ――降りたよね? え、いつも降りてるよね?
 泉大津を過ぎ、もうすぐ羽衣に着こうかという区間急行。わたしの座った四両目三扉脇の席から少し離れた二扉目のすぐ横、戸袋巻き込み防止のステッカーが貼ってあるあのあたりに、なぜか彼が立っていた。
 相変わらずゲームをしていて、こちらの様子には気づいていない。目が合うのがなんとなくおそろしくなり、目線を向こうにしないようにうつむく。
 どういうことよ。いつも泉大津で降りるじゃない。なのになんでまた乗ってるのよ。ていうかちゃんとヘッドホンしてるじゃないのよ意味わかんない。
 今しがた降りて行ったはずの彼が、なぜかまた同じ電車に乗り込んでいる。え、どういうことよ? 待ってどういうことよ?
 結局彼は天下茶屋までずっと乗っていて、それどころか天下茶屋でも降りず、なんば方面へと走り去る電車に乗車したままだった。
 彼が時折こちらを見ている気配がしたのでこちらも偵察はできず、確実なことは言えないが、堺まで行っても降りず、天下茶屋の降車ホームにもいなかったので、降りなかったのは間違いなかった。
 ――いやいや意味わからん。どういうこっちゃ。あのひとなにしてんの?

 翌日も同じように岸和田まで居眠りこいて、スマホゲームして、やっぱり泉大津でいったん降車した。別段ごみを捨てるためとかジュースを買うためとかいうふうでもなく、降りたらそのまま隣のドアへ向かって歩いていく。
 今回は一扉目脇に立ったようだった。少し遠いので見えにくいが、サラリーマンとOLの間から彼のシャツの腕のあたりがちらちらと覗いた。
 わたしはそっちばかり目が行って、触ってたはずのスマホゲームに集中できなくて全敗した。あまりに一点を見つめるので、隣のおじさんに不審そうに見られた。

 その日は雨だった。ぼたぼたに濡れた傘をたたんで、いつもと同じマルロクサンヨンに乗り込んだ。四両目三扉。いつものようにくうくうと彼は寝こけていて、やっぱりわたしは同じように彼の前に立った。
 今日はわたしも音楽を聴いていなかった。雨なので本も持たず、スマートフォンでぽちぽちとSNSを触った。雨が窓を斜めに切り裂いていく。
 岸和田について、やっぱり彼は目を覚ました。きょろきょろと見回して、やっぱりいつもみたいにゲームを開いた。わたしはまだSNSを触っていた。
 六両編成区間急行なんば行きはどんどん北へ向かって走っていく。
 ――泉大津、泉大津です。普通車なんば行きをご利用のお客様は当駅でお降りください。次は羽衣に止まります。……左側の扉が開きます、ご注意ください……。
 青年はまたいそいそと降りる準備を始めた。荷まとめもほどほどに立ち上がろうとした彼を、つり革を持っていた手を放して、わたしはやんわり制止した。
「座ってて」
 わたしが言った言葉の意味を、彼は一瞬理解できなかったようだった。
「本当は泉大津ではお降りにならないんでしょう」
 電車がペースを落とし、人が歩くスピードと同じになる。
 彼のひとみが、次第に大きく見開かれていく。
 ――泉大津、泉大津です。お降りのお客様を先にお通しください。……傘などお忘れ物のないよう……。

 0709
 天下茶屋、天下茶屋です。お降りの際は、傘など忘れ物のないようお気を付けください。左側の扉が開きます。扉付近のお客様は、開く扉にご注意ください。天下茶屋です。次は、新今宮に止まります。

 天下茶屋まで、一言も話さずに乗り合わせた。やっぱり天下茶屋で降りるのを知っていたようで、彼も連れ合わせて一緒に降りた。
 始業まではまだしばらく時間がある。彼も半時間ほど時間をつぶしたいというので、天下茶屋のファストフード店に入った。喫煙席でもいいか訊くと、僕も吸うんです、とカバンからシガーケースを出した。
 お互いにアイスコーヒーだけオーダーして、テーブルについた。煙草に火をつけて、同じタイミングで煙を吐き出した。
「本当は、新今宮まで乗ってるんです」
 口火を切ったのは青年のほうだった。また一口煙草をくわえた。
「でも、あるときあなたがすごく……うつらうつらしてて」
 わたしはなんとなく気まずくなって、コーヒーをすすった。ミルクとガムシロをひとつずつしか入れていないのに、なんとなくいつもより甘い気がする。
「席を譲るつもりで立ったんですけど、なんとなくそのまま前に立つのも気を使わせたと思われるかなと思って。一度降りて、もう一度乗りなおしたんです」
「……そうしたら気をよくしたわたしが次の日からずっと前に立ち続けたのね……」
 ずごご、とコーヒーを鳴らした。恥ずかしい。超恥ずかしい。
「ごめんなさい、そうだとは最近までずっと気づかなくて……」
「いえ、……」
 彼は一瞬どもった。
「下心込みで、してたんです。すみません」
「……え?」
「こうしたら、ずっと僕の前に立ってくれるかなと思って。……実は僕の前に立つよりもずっと以前から、気になってて、……ストーカーみたいなことしてしまって」
 すみません、と言いながら、彼はうつむいてしまった。

 ……なんかこのひと、めっちゃかわいくないか。

 顔を真っ赤にして、煙草を持つ手はふるえてるし、ちょっと灰こぼしてるし。
 コーヒー飲んでないし、煙草の灰伸びてるし。めっちゃ健気。

「……わたし、おとこのひと苦手なんです」
 ぼそりとつぶやいた言葉を、彼の耳はしっかり拾ったようだった。
 ばっと顔を上げた。焦ったような、失敗したというような表情をしていた。
「ずっと女子校だったので、ちょっとこわくて。会社の男性陣も、ずいぶん年が離れてて時々話が分からないこともあって」
 もう一口くわえて、火をつぶして消した。続けてもう一本火をつける。
「ちょっと苦手意識が強くて、でも、あなた優しくて」
 煙草を灰皿に置いた。コーヒーのカップを、両手で包んだ。
「あの、よかったら、お名前教えていただくところから、始めませんか」

 午前六時三十四分発、四扉車六両編成の区間急行なんば行き。
 早朝の電車はいつだってそこそこ混雑している。
 わたしは今日も、四両目三扉から乗り込む。

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