目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
部屋は相当散らかっていた。ベッドの上で三日はたたんでいない布団、床に落ちた毛布、クッション、火をつける前に折ってしまった煙草、開きっぱなしで散らかったメモ帳、ノート、破きかけた自己紹介書、布団に乗り上げたスリッパ、あふれたごみ箱、飲みかけのコーヒー、しばらく触った覚えのないスマートフォン。壁中に貼り付けた締切の覚書が責め立てる。
威圧感は消えない。
開け放した窓から流れ込む四月一日の風が冷たい。明日は暖かいというが、ニュースは夜中のことまで天気予報しない。
志望動機以外を複製しまくって部屋中に散らばらせた履歴書。一文字でも狂えばジャンクになるその紙切れが、命より惜しく思ったこともあった。
アピールできるなにかがあるわけでもない。
むしろ欠点ばかりで、自分を知るたびにこんなごみくずはいらないと思った。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
昔、工作をするのに買った、たった一回ほどしか使っていないきれいなカッターナイフが、そこで輝いていた。
自分はそのカッターナイフによく似ていると思った。切れ味のよさは知らないが、おきれいに飾って中には経験もなにも詰まっていない。新品同然はいわゆる役立たずだった。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
パソコンの画面を、先ほどからずっと見ないようにしていた。
エントリーシート。提出期限は明日に迫っているのに、昨日から一文字も書けない。
寝ずに考えているのに、一文字も進まない。
こんなことを書いても、誰かとかぶってしまう。こんなことは企業は求めていない。こんなことは誰も読みたいと会いたいと話したいと採用したいと働きたいと思わない。
誰も思わない。
そんな考えばかりが走って一文字も進まない。
貴社で役に立つ人間になりたいなんて書いてもどう役に立つのかなんて思いつかないし、貴社で一番の人間になりますなんてカスみたいな話はいらない。かといって貴社で働きたいですなんて何万人も思っているんだからその中で私だけが光るなにかなんか持ち合わせていない。
つくづく変にプライドが高くてくずみたいな人間だった。こんな人間になりたくなかったと思っても、なってしまったからその人格を切り捨てなければいけないと思った。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
でもこの人格に、今まで救われてきた。誰よりも劣っていると気づかされた時も、プライドの高い自分が大丈夫だお前ならできると励ましてくれた。いじめられた時も、あいつを見返せるほど大きな人間になれと叱ってくれた。
この人格が嫌いだった。でもこの人格がいたから生きてこられた。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
でもこの人格を社会は求めていない。猫のような人間よりも犬のような人間が必要だという。でも猫のような頭脳もほしいという。わたしはそのどちらにもなれない。
なれないと決めつけるなと誰かが言う。逃げるなと誰かが言う。
これは逃げなのか。逃げたら負けなのか。逃げたらそれは人間として終わったのか。
終わりだよとあの人格が言う。お前は社会の底辺にいるのが嫌いじゃないかと笑う。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
若いということは何でもできるということだと誰かが言う。若いということはそれだけで勝利だと誰かが言う。
自分の可能性に挑戦できるのは若さの特権だと誰かが言う。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
チャレンジしたいことはなんですかと企業が言う。挑戦したいことはなんですかと企業が言う。あなたを雇うメリットはなんですかと企業が言う。
目の前にカッターナイフを置いて、考えている。
カッターナイフを手に取った。ちきちきと刃を伸ばした。
部屋中に散らばる紙に、布団に、椅子に、クッションに、刃を向ける。びりびりに破いて、壊して、笑った。
笑いながら泣くかと思ったが、泣かなかった。
カッターナイフを紙に向けて、考えている。
捨てられないものがある。どうしても見捨てられないものがある。
カッターナイフを己に向けて、今突き刺す。