幸せを定義するときに、「生きてりゃそれで万事解決」なんていう人がいる。誰しもそう思っているだろう。
生きていればそれだけで価値があると言う。だけど考えてほしい。
生きていればそれだけで儲けもの、それは歩き息をし飯を食う幸せを今噛みしめられるひとだけが知っていることだ。
じゃあ考えてほしい。あなたが生きている意味を。私が生きている意味を、彼女が生きている意味を、彼女を生かしている『人道的』な判断の意味を。
――――私が生きている意味を、教えてほしい。
*
久しぶりに、祖母の病床を訪ねた。もう数か月ぶりになる。
入院生活がすでに片手では足りないようになってしまった祖母だが、まだ生きている。
彼女はそれでも、生きているのだ。
*
『つめたッ』
『べちゃべちゃじゃん! 風邪ひくよ』
テレビから聞こえるはしゃぎ声が、わたしの脳髄をいっそう冷やしていく。
『私はこの瞬間を必死で生きている人を、応援します!』
きゃあきゃあと笑う彼らは、本当の真実を知らない。
皮肉にも当人たちが始めたことのはずなのに、当人たちの手を離れ、その行為だけが独り歩きしていく。
どうしてこの世は、こんなにも『不都合な真実』にあふれているのだろう。
*
「久しぶり」
それ以外にかける言葉もなく、もう意味をなさないあいうえお表が引き出しから覗いているのを見やるしかない。
ベッドの端に目をやると、ぱんぱんにむくんだ手があった。以前来たときは動かないにしても普通の老人のものだったその手は、いまやふくらませた水風船のように、しわどころか関節のくぼみすらもなくむくれていた。
動かさずに削れ落ちた筋肉、失った贅肉、紙おむつに膨れた下半身。胃瘻のガーゼで少し汚れた衣服、話せない喉。現実の最果てがそこで横たわって、季節の風すら感じられずに終末医療の空気を吸い続けている。――機械的に。
「手ぱんぱんだね」
ちいさく呟くと、母がそうだねと目をやる。
「内臓からくるむくみだからね、万歳したところで流れていかないのよ」
目のあたりをウエットティシュで拭いてやりながら、相槌を打つ。
母の声ももうずいぶん冷めていて、祖母ももう寝ているのか目が開けられないだけなのか、反応はない。
これが現実なのだ。氷水なんかかぶらなくとも、わたしの生きる環境下に、現実が横たわっている。
自分では息ができなくても、口からご飯が食べられなくても、人と話せなくても、意思の疎通がなによりも困難でも、彼女は生きている。 自殺ほど馬鹿なことはないとひとは言う。
これが残酷なのかどうかは、わたしが決めることじゃない、けれど。
*
あなたたちはなにも知らない。ベッドに寝ている人がどんな病なのか、どんな症状があってどうなっていくのか、急速に悪化すれば二年ももたないものをひとによっては十年近く緩やかに生きていくことも、なにも知らない。
その症状に振り回されてどれほど病院をたらいまわしされたか、機械がなければ生きていけないのに受け入れられないと突っぱねられ行き場をなくしかけて絶望した家族の思いなどなにも知らない。
ましてそのひとがなにを考えているのか、認知症になっているのか気が狂っているのかもう人ではないのか意識があるのか意識はないのかもう息をするだけになっているのか本当に言いたいことがあるのかそのまぶたは眠さに重いだけなのかもう何年も食べていないご飯の味を思い出すことはあるのか懐かしいと思うのかまた食べたいと思うのか数時間に一度来る痰の吸引が待ち遠しいのかもういっそこのまま死なせてくれと思っているのか、あなたたちは、あなたたちは、なにもしらない。
知ろうともしない。知ろうともしない!
伝えて、知ってほしいとも思うのに、あなたたちは、知ろうともしないのだ。
これほどまでに、不都合な真実がありますか。
あなたたちがこの病の、なにを知りましたか。
もっと話したいと思う家族がここにいるのに、話すらまともにできないこの感情を、知ってほしくないと思うと同時に、知ってほしいのに。