いつくしみふかきあお

 わたしは絶望した。
 こんなものは裏切りだと、なじるような憎しみが、わたしの中をひたしてゆく。
 しかし気付いてもいた。

 ――わたしが、この才能に追いつけることもないのだと。

 目の前に広がる、壁一面に油彩ののたくったその大きな絵画を見る。
 この絵画をほめたたえる人が、いったいこの世に何人いるだろう。
 たとえこの絵画をほめたたえる人が他にいなくても、それでも、わたしはこの才能に勝てない。
 この絵のバックグラウンドに広がる、この無限のようなこの哀しみを、油のきついにおいが責める。
 これが多崎嘉寿の才能なのだと、わたしは頬を叩かれたような気持ちで見つめていた。

 多崎嘉寿は女である。字面が悪く男のように見えるが、かじゅ、と読ませる。ペンネームなのだろう、というのは別段知り合いというわけでもないからである。
 いや、言い方が悪い。多崎嘉寿は友人である。ただしこの活動の範囲内での友人であって、仲のいい大学の親友、というわけではない。そういう付き合いで、つまりそんなわけで本名までは知らない。
 多崎嘉寿というのは根っからの油彩描きだ。手足をカラフルに染め、いっそ不健康なほど油のにおいの立ち込めるアトリエとも言い難い六畳間で絵を描く。以前締め切り直前のアトリエに、おなかすいたからご飯がほしいという今にも死にそうな電話が来て飯を届けたことがあるが、正直あの独特の画材のにおいがえげつなかったのをおぼえている。
 特に多崎嘉寿は大きな絵を描く。小さい一般的なものも描くには描くが、だいたいの絵はキャンパスがメートル単位の大きいものだ。一番大きいものは四辺が八メートルを超えるもので、あの時はアトリエでは描けず、近所のもう稼働していない町工場を間借りして描いていた。
 わたしも絵を描くが、イラストの部類である。雑誌の隅っこや、パンフレットのモチーフを書くようなのが仕事だ。お金も受け取れるような仕事だが、個展を開くような仕事ではない。
 対して嘉寿は個展を開けるような点数を描いておきながら開かない。嘉寿は受注を受けて描いている。ひとつテーマを決めてもらい、そのテーマを中心に仕上げる。人物画の注文は受けたことがないからか、景色や無機物を描くような仕事が多いらしい。

 今回の作品も、注文を受けてのものだった。サイズは百五十センチと八十センチの横長。もらったテーマは聞いていないが、予想はついた。
 一面のブルー。海の向こう、ぼんやりと穏やかな緑が漂う。蜃気楼のあまやかなそれが、幻覚のように島を遠のかせている。
 黒にも見えるその海の底に、おそらく嘉寿は眠っていた。嘉寿の本質は、その蒼の底にある。
 嘉寿は絶望を描くのがうまい。どんなに明るく、底抜けに鮮やかな絵を描いてもその本質には黒い闇がある。
 花畑を描いても、天上を描いても、彼女の絵には彼女が映り込む。
 どうしてこんなにも絶望を練りこむのか、その意味は考えたことはないけれど、その絶望はいつもわたしを殴った。
 わたしの絵には、意味はなかった。漫画を描くときはまだしも、イラストの時にはそのそばにつくメッセージに込められたものをつたえることしかしない。だがこの嘉寿の絵はどうだ。全面を使って、感情を叩きつけてくる。わたしの絵に、それはなかった。
 殴るようなこの激しい感情を、あの静かな女が持っている。わたしにはない才能だった。……そう、才能だった。
 やればできることを、彼女はやってわたしはしない。ただそれだけだ。そんなものに絶望しているわたしのほうが勝手である。わかっている。そんなことはわかっている。わかっているのだ。
 だけど。

 このどこまでも広がるブルーを、わたしは、絶望と憎しみと、そしてあきらめを持って、いま見つめている。

inserted by FC2 system