旅に出ます、探さないでください。
会社には休みを提出してあります。
しばらく溜め込んだ有給の消化です。
八月の半ばには帰ります。
もういいおとなですから、心配はいりません。
ふみ
*
『別れよう』
それは、ある程度予期していた展開だった。
ずいぶんくたりきった中年の男の肉体が、ベッドに横たわっていた。煙草をくゆらせる彼は、なにかに気をやるようにわたしに対して集中力がなく、しかしなにかに対して神経を研ぎ澄ませていた。
『……予定より長かったんじゃないかしら』
『三年半だ。アバンチュールには長すぎたか』
たしか健康診断で内臓脂肪が引っかかった頃だな。彼は煙草の息を吐き出し切りながら灰皿でもみ消した。
『なに、奥さんにでもバレたの』
わたしが切り出すと、彼は笑った。
外を流れていく景色が、夏の暑さを逃がしていく。
海寄りを走る車両だが、延々と外の景色が見えるのはトンネルもなく地下にも潜らない路線を走るからか。
『おまえとの相性はよかったからこのまま続けたかったんだがな』
保身と金が大切な彼は笑った。彼の妻が会社の上司で、ということはないのだが、しかしバレてしまいそうなのだという。
『さすがに外聞が悪すぎる』
もみ消した煙草からまだくゆる煙を見つめて、彼は続ける。
『相性はよかったが、最後まで心は開かないな』
『不倫相手に心全開なんてどだい無理な話よ』
ベッドから立ち上がり、腰の手前まで伸ばしたゆるいカーブのかかった髪をかきあげてまとめる。自分にも歳を感じて、嫌な気持ちになるのはどうしてもごまかせない首回りだ。
『おまえから寝ようと言われたこともなければ好きだとか言われたこともなかったな』
『流行りのツンデレとかいうやつなのよ、わたし』
『そうか?』
彼は信じていない口ぶりで、立ち上がったわたしの腰を腕で引っつかんだ。そのままベッドに尻もちをついたわたしの首筋に鼻をうずめた。すん、とにおいをかぐのが感じられた。
『喘ぐばかりでおれのことはさして考えてないんだろうと思ってたがな』
『そんなことないわよ。それならとっくに別れてるわ』
わたしは笑った。好きでも、それ以上は求めない。そんな都合のいい女でなければ、この男はわたしと関係を持とうなどとはしなかっただろう。
それが分かっていたから、だから。
「好きなんて、言えるわけないでしょ……っ」
涙が出た。腹が立って仕方なかった。不倫や浮気という関係だけで物足りている男に、それ以上の気持ちを求めてどうする。一緒になりたい? 別れたくない? ――それこそありえない。
ぼろぼろと出てくるそれを、止めるすべがなかった。ずっと好きだった。彼が結婚していて、それでも想うだけなら許されると思ってずっと見ていた。不倫という関係に踏み切った時も幸せだった。奥さんになれなくても、彼を独占することができる時間がわたしだけに与えられる、――むなしいだけでも。
『じゃあわたし、帰るわね』
午前三時、始発もまだしばらく動かない夜更けに、わたしはスーツを着直して立ち上がった。結局尻もちをついた先でいたずらをされて喘ぐことになったのだが、シャワーを浴びなおすほどではなかった。
『ひどい男、置いていくアクセサリーもないったら』
付き合っていた三年半、プレゼントのひとつも貰わず、また渡すこともなかった。人目を忍んで旅行に行くことすらなかった。金と物ではない、ただセックスという関係だけでつながっていた。
『欲しいって言わなかっただろうが』
『言わなきゃくれないような男になっちゃだめでしょう』
『……なんかほしいもんあったのか』
『ないように見えるの』
バッグを肩に引っ掛け、くるりと振り返った。まだ下腹にシーツを引っ掛けただけの彼はわたしを見て驚いたような顔をした。
『なによ』
『……いや、おまえがそんな顔をするとは思ってなかったから』
『どんな顔よ』
間抜けな顔でもしてた、と片眉を上げてみせると、いや、と彼は首を振った。
『自覚がなかったんならいい』
『そう』
外はいつの間にか薄紅に染まっていた。また一日が終わろうとしている。わたしを置いていく気なのだと、わたしはもう気づいていた。
この旅行ももう終わる。あさってには家に着いている算段だ。また何事もなく仕事をして時間が過ぎ去っていく毎日が始まる。
あの人のことを思わずに毎日を過ごせるだろうか。フォルダに残せないメールを待つ日々を送らずに、わたしはまたひとりで生きていけるだろうか。
『結局なにが欲しかったんだ』
ベッド脇に散らかしたミュールの右足を履いたときに彼は口を開いた。
『なんだと思う』
くるくると肩をこぼれる髪をもう一度肩に上げながら、わたしは問い返す。タイトスカートを一度払った。
『自分では言わないのか』
『恥ずかしくって言えないわ』
わたし早番なんだけど、と急かすように首をかしげる。自分で言いたい答えではなかった。
『そこまでおれが欲しかったか』
『……バカじゃないの』
恥ずかしげもなく言い切る彼が、――どうしてもいとしかった。
『保身気にしてる男なんかいらないわよ。願い下げだわ』
『願い下げたいような男と三年半もよく一緒にいられたな』
『……』
返す言葉が見つからない。この玄関を出てしまったらもうずっと他人になってしまうのに。
『体の相性だけはよかったからじゃないの』
年のせいか気になり始めた脇の肉のあたりでよれたシャツを少しつまみながら、わたしはなるたけ冷ややかに返した。
ICカードで乗ったのをいいことに、わたしは途中下車をした。そばに海が見えたので、歩いて行けそうだと思ったのだ。そばのコンビニで聞けば、歩いて十分ほどだというので頑張ってみることにした。
女の長旅にしては小さなキャリーをごろごろひいて、アスファルトを進む。夏の昼間の熱を吸い込んで、地面に犯されたつま先が少し熱い。
もう海岸線の向こうに太陽は沈みつつある。オレンジと青のグラデーションが、いっそ人を殺しそうな黄昏に見えた。
砂べりに出るよりも先に磯の匂いがきつくなった。潮の匂いではない、日本の海らしいきつい匂いだ。海寄りに住んでいるというあの男も、こんな匂いだった気がする。海のそばにかつて住んだわたしも、きっとこんな匂いだった。
海寄りの家に置いた自転車はすぐに錆びる。しおに負けてしまうのだ。錆びないステンレスとうたったあの自転車も、すぐに錆びてしまった。
どうやっても、不倫なんて考えられなかったあのころの若く純朴な自分には戻れない。自分が錆びてぼろぼろになってしまったように感じた。
錆び切った自転車なんかじゃ、前に漕ぎ出せる気がしなかった。
ドアを開けたとき、ふと思い立って振り返った。
『ここのお代どうする? わたし払っておこうかしら』
『……そのぐらいは気にすんな』
『そうかしら。なんだかいつも払ってもらって悪かったわね』
『……余韻とか知らねえのかおまえは……』
そのころには彼も立ちあがってシャワーの支度をしていた。前を隠すようなこともせず、どこかくたびれた、それでも締まっている体を堂々と見せつける。
『余韻すら残せなくてごめんなさいね、じゃあ』
外へ一歩踏み出し、後ろ手にドアが閉じかけたとき。
『おれが嫁と別れるって言ったらおまえ、おれと一緒になる気はあるか』
かろうじてそれだけを聞き取り、しかしガチャン、とドアは非情に閉まった。
ドアはもう閉まってしまった。彼はこのドアを開けてわたしが答えを出すのを待っているだろうか。
いや、保身が大切な彼はそんなことを気にも止めず、最後の余韻を作ったつもりかもしれない。もうシャワーを浴びにあのデコラティブなシャワールームに足を踏み出したのだろう。
それでも最後の最後にあんなことを言う彼が憎らしかった。幸せな家庭を持っておきながら内はセックスレス、かたや外では女を作って毎週逢って。彼にとってわたしはスリルを与える道具だったかもしれない。そんな道具を最後には金やそんなもののために捨ててしまった。最低な男だった。それでもそんな彼を愛してしまった。いとおしいと――ずっと関係が続いたらと思ってしまった。
もう誰も聞いていないはずの答えを、自分自身に返した。
『ないわ』
*
ふみちゃんへ
合鍵でおうちに入りました。旅行は楽しかったですか。
またおじさんから桃をもらったので冷蔵庫に四つ入れておきます。
久々に、またこっちにも帰っておいでね。仕事のことや旅行のお話も聞かせてください。
お母さんより