紹介できない彼氏

「煙草吸いてぇ」
 男はがっくんと首を落とした。
「何日目だ?」
「十日目」
 もう無理十日煙なしとかマジありえないんですけどぉーと三十を目前にした男が唇を尖らせる。
「でもお前マイセの一ミリだっただろ」
「ロングを一ミリメートルも無駄にせずに吸ってたから」
 ニコチン足りない、とヤク抜けの禁断症状に苦しめられる中毒者みたいに言う。……そこまではひどくないかも。
「お前は!! その俺の横で!! 堂々と!! キャスター吸いよってからに!!」
 いい匂いする! と半泣きの男だが、それなら喫煙所に来なければいいものを。
「でもお前、可愛い姫のために煙草やめたんだろ?」
「そう! 煙草の臭いがくさいって言うから俺は決意した! かの暴虐な白い巻物と決別せんと決意した!」
 もう超可愛いんだよ、と今度は別の意味で頭を抱え始める。
「だってさ、パパは煙草吸わない方がかっこいいよ、って言うんだよ」
「微笑ましいことだな」
「でもわかってるんだ、半分は嘘で、真希子がパパには煙草やめてほしいよねーって唆してるんだ! だから昨今のたばこ税増税には反対なんだよ!」
「嫁強し母強し」
「でも言われたらやめないとパパの矜持がすたる」
「頑張ってパパー」
「気持ち悪い裏声出すなよ」


 一本吸い終えて、そろそろ戻るぞ、と背中を叩いた。うん、と至極つらそうに立ち上がる。
「あーつらい……いらいらする……」
「お前シールみたいなアレとか使わねえの」
 肌に貼るやつさ、と指で丸を作って二の腕にのせた。
「なんかそれってつまりニコチンだからくせになっても困るし、まあいいかって」
 あれも高いしな、言いながら男はガラスドアを開ける。
「まあ、可愛い娘のためだろ」
 頑張れパパ、ともう一度言うと、そうするよ、と男は笑った。


       *


「もう帰るのか」
 ベッドの中の男は、すでに身支度を整えた女に言った。
 壮年を目前にしようかという男は、若い女のそのスーツ越しにも細くなめらかな腰を見る。先ほどまで、この腰が自分の下でうねっていたことを思い出した。
「仕事が朝早いのよ」
「休み取れてんのか?」
「取ってる休みをはしからあなたがセックスに変えていくんでしょうが」
「休みなしですまんな」
「どっちの意味よそれ、いい年して絶倫なんだから」
 よいしょ、と若干のふらつきを見せながら鞄を取る。すそがゆるく巻いているロングヘアを揺らめかせて、彼女はこちらを見る。
「背徳感ってものはないの、佐藤チーフ」
「もう部長だがな」
「わたしのなかではまだチーフです」
 先々月、チーフだったのが別の部署に移って部長に昇格した。もうこれ以上の昇格はないだろうと見込んでいる。あまり昇進したいという意識がないのは、家庭を持たなかったせいかもしれない。
「今のチーフはどうだ」
「どうだか。あなたが辣腕ふるいすぎてどれが就いてもパッとしないってみんな言ってるわ」
「辣腕ふるってたらもっと昇進してるっての」
 煙草を一本取り出す。キャスターマイルド。
「寝タバコはダメだったら」
 もう、と火をつける前に女が灰皿を持ってくる。ステンレスのちゃちな灰皿だ。
「わたしも一本吸ってから行こうかしら」
 まだ明け方の四時すぎ、ここからの最寄りは鈍行駅で、始発は五時前だ。電車がないのに早々に帰る理由はわかっている。
「一旦家に帰るのか」
「そうね、あなたが起きたらバイク貸してって言おうと思ってたの」
 一本くださいと女がねだるので、ほら、と差し出す。火のついているタバコを先端に押し付けてやった。
「それよりあなたの吸いさしの方が欲しかったわ」
「バカ言え」
 それだったらキスすりゃあいいだろと言ってやると、もう勘弁、と女は言った。夕べもさんざんいたるところにキスをしたところである。
「お父さんが見たら泣くぞ」
「今更だわ」

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