うつくしい身分証明書

「じゃあちょっと行ってくるわ」
 小さなショルダーバッグをかけ、自転車にまたがる。
「一時間かそこらで帰ってくるし」
 イヤホンを耳にさして一漕ぎする。風を切る。なんだろう、この道は今でも使う道なのに、すごく懐かしい匂いがする。


 定期を買いに行ってくる、と私は母に言った。金曜日の昼下がりである。本当は昨日買いに行くつもりだったのが、雨で出かけられなかったからだ。
 お金はあるの、と訊かれていらないと返した。IC定期を使っている私は、カードをチャージ式ではなく口座直結式で購入している。定期代はそこから自動で引き落とせる。
 春秋制の大学特有の長い長い冬休みである。十二月までの秋学期が終わると、四月まで春休みになる。
 冬のあいだはバイトに明け暮れた私も、しかし三月に入れば学校へ行く用事が増える。部活に関してや、来年度からの授業ガイダンス、授業編成について――内容は様々だ。
 大学までは自宅からおおよそ二時間半ほどかけて通学する。遠距離通学のギリギリのラインだと思う。そのあいだに電車を乗り継ぎ、大学の最寄駅からはバスを使う。
 電車も二線利用していて、自宅から乗換駅までの線はひと月で五日乗れば元が取れるが、そこから先である乗換駅から学校最寄りまでの線は七日乗らなければ取れない。三月中、学校へ行くのは四回がせいぜいである。五日のほうはその定期を使えば大阪の都市部へ行くこともできるので、買えば使う。結局五日で元が取れる方だけ購入を決めた。
 雨で定期を買いに行けなかった理由は、自宅からの最寄駅では定期を購入できないためである。無人駅のため、主要駅まで向かわねばならず、ケチっている私はその駅まで自転車で行く。二十分ほどの距離だが、これが難儀な道であるのは舗装が甘いのともうひとつ理由がある。


 一年前まで、私はセーラー服を着て自転車を走らせていた。学校指定の自転車ステッカーを貼り、スカート丈も真面目にはき、髪も染めずアクセサリーもつけず、置き勉禁止だったのでたくさんの教科書を詰めたエナメルバッグをしょって三年間走っていた。
 小中高と近所だったせいで電車など使うこともそうそうなく、部活の試合の時だけ乗るのが定石だった。ゆいいつ自転車がパンクした高校三年の夏はどうしようかと思ったこともあるくらい自転車が通学の命だった。
 定期を購入できる最寄駅は、この高校の最寄駅にあたる。それもその最寄駅を通過するのがちょうど最短ルートだった。そういうわけでついケチってしまうのである。


 住宅地から出て橋を渡り、母校の中学を右手にして左へ走らせるとしばらくで大きな道へ出る。これが誘惑の道で、線路沿いに出るまでにコンビニはローソンファミマ、セブイレはふたつ、インド人のつくるうまいカレー屋にスーパー、果ては懇意にしている古本屋まであるという難儀な道である。朝はともかく夕方は部活帰りで頭のネジは飛んでいる。コンビニの誘惑には打ち勝てども、古本屋の誘惑に私は何度負けたことか。
 高校時代の友人とこの古本屋のおかげで私は見事オタクを悪化させるわけだがその話は置いておいて、私は当時と同じ、ステッカーも貼りっぱなしの自転車で、私服で道を走る。昨日の雨のせいか、それとも巷で噂の太陽神がソチから帰ってきたせいか、今日は暖かい。
 ゆったりと走って、十分ほどで大きな交差点に出る。上を高速道路が走るという道で、この高速道路のすぐそばを高架で電車が走っている。交差点を渡ってすぐに右。高架下をずっと走らせるこの道が人気は少ないものの信号もひとつしかなく、近道になるのである。
 やはり懐かしいと思った。交差点あたりまでなら今でも時々来る。あの交差点を越えてまっすぐ行くと最寄りのカラオケ屋があるからだ。しかしこちらはもうずいぶん走っていない。
 たった一年でも景色は変わっていた。一度は入ってみたいと思いながらもタイミングを逃していた喫茶店は焼肉屋になっていた。トタンの工場は更地になっていた。
 それでも匂いは変わらなかった。田んぼの匂い。
 プリーツをはためかせ、それでも自由になりたいと温室から叫んでいた。じめついた温室から出てみれば、砂漠なんかより温室に戻りたいと当時はよく思った。
 過去は美化されていく。嫌なことがたくさんあったはずなのに、どうしてか、あの日々は美しくなっていく。


 駅について、私は目的の定期を買った。駅には学生服の男女がちらほらしていた。弟もそうだが、ちょうど今は学年末テストの時期である。
 懐かしい制服や、近所の他の高校の学生がたまっている。私もいつかあの中のひとりだった。駅前でたまるような生徒ではなかったが、それでもあの中のひとりでいることを許された人間だった。
 制服を脱いだ私は、ただのひとになった。制服という身分証明書は、もう過去のうちに期限切れになってしまった。
 文化祭ではもめた。一人突っ走って疎まれた。体育祭でももめた。どうしてだろう、この一年であの薄汚かったはずの日々が純朴な青春だと思える。
 試合に負けて泣いた日もあった。怪我をしてサポーターを巻いたこともあった。まともに走れなくなった自分をいっそ殺してやりたいとも思った。治った後も、もともとから浮いていた私は結局浮きっぱなしだった。
 駅中の本屋でふらふらと品を見た。制服姿で少女漫画に手を伸ばす女子高生があの頃のショートヘアの自分と重なる。いや、私はもっとデブだった。


 きっと帰り道にも懐かしい風を感じてしまう。そうして私は、成長とも言えない成長をして、そして、有無を言わせず大人になっていく。
 ああそうだ、そろそろ成人式の写真と着付けの予約もしなければならない。


 世界とは、どうしてこんなにもめまぐるしい。

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