幸せの痛み

 あーしくったな、と女はやはりいつものようにおっさんみたいにソファでふんぞり返っている。
「鼎、今日の予定もっかいおさらい」
「本日十四時より高藤さまがこちらにおいでです。二時間の会合が終えられましたら本日の予定はほかにございません」
 かなえと呼ばれた小柄な女が、手帳を開いて予定を言いあげる。
「うっかりしてた、高遠のバカが来るのか」
 一日休みだと思ってたなと女は頭をかく。鼎が御髪が乱れますと注意してもきかない。
「今日はこのあと時貞のおじさまとデートするつもりだったんだがな」
「今度はオクスリでもおねだりするつもりでしたか」
「一億くらいで見繕ってもらう予定だった」
「あらまあ」
 どうしましょうと鼎は頭を抱えるようにした。ダブルブッキングである。
「時貞のおじさまに電話する」
 ただいま、と電話線を伸ばして鼎が黒電話を引っ張ってくる。この家に子機付きの家庭用電話やテレビといったハイテクなものはない。
「……もしもし、おじさま?」
 美寿々ですわ、と相手がさも自分の夫かのように話しかける。
「今日のデートはお断りしたいんですのよ」
 申し訳ありませんわ、と受話器のコードをくるくるやりながらまったく申し訳なさなどなさげな風体で申し訳なさそうに言う。
「今日はちょっと厄介な奴が来るんですの」
 断りきれませんでしたの、とふんぞり返るえらそうなおっさん女は可愛らしい声でおねだりする。
「ごめんなさいおじさま、この埋め合わせは必ず……今晩ですか? 夕方以降ならあいていますわ」
 ええ、ええ、と相槌を打っている。
「では今晩七時にヴィオレッタで、本当に申し訳ありません」
 大好きですわおじさま、と最後に愛くるしく言って、そしてよっしゃあと言わんばかりの顔で受話器をおいた。
「これで問題ないわね」
 鼎を通さずに予定立てるもんじゃないわと首をすくめる。
「何時だ、……一時半か」
 そろそろ来るな、と立ち上がった。お支度はこちらですわと鼎がたとう紙にくるまれたものを軽く持ち上げて微笑んだ。


 約束の二時、数人のお付きを従えて客人はやってきた。
「麗しゅう、お嬢。ご自宅で訪問着を着ていらっしゃるのは俺の車に乗ってくれるからかな?」
「やかましいわクソ野郎。てめえの顔なぞ二度と見たくねぇな」
 玄関先で框の前に立つスーツ姿の高藤がにこにこと美寿々の言葉をスルーする。
「いいお話期待していますよお嬢」
「いい話になるかどうかはそちらさんのプレゼンにかかっているのよね、おバカな頭じゃそこまで考えが追いつかないかしら」
 嫌味に言って、脇に追いやっていたスリッパを指す。
「どうぞ」
「これはご丁寧に」
「汚い足で上がられると鼎が掃除に苦労するんでな」
 くるりと踵を返して美寿々は廊下の先をゆく。上がったところで、ああ、と思い出したように口を開いた。
「確認しろよ、画鋲でも入ってるかもしらんぞ」
 ここはわたしの家だからな、と意味深に笑う。
 そばにいた風体のごついお付きが、失礼しますとスリッパをつまんで振った。


 すると中から出てきたのは――――ゴキブリである。


 うわああ、とパニックを起こすお付きの者たちの奥で高藤は目だけをゆるく見開いて固まっている。ゴムでできたゲテモノに異常に取り乱す部下の声に驚いたのか、ゲテモノに驚いたのか。
 その姿を知ってか知らずか、彼女は奥の部屋でげらげらと笑いこんでいた。


       *


「ああ非常に愉快だった」
 六時半、車の中で笑いを引きずりながら女は言った。
 結局二時間の会合は二時間では終わらず、六時過ぎまで高藤は居座った。先日からうるさい南の勢力がどうやらイイものを持っているらしいという話で思いのほか盛り上がったせいである。
 ついでだから持って帰れとゴキブリではなくムカデを出してやると、お嬢からいただけるものならなんでもいただきますよと腹立つほどの笑顔で言い切った。
「子供っぽいイタズラはあまりよろしくありません」
 鼎は運転しながらたしなめる。お立場がございますのでとルームミラー越しにこちらを見る鼎を、まるで母親のようだと笑った。


「鼎にはこれからも迷惑をかけることになる」
 不意に女は真面目に告げる。
「聞いていただろう。南の雄和会がペケをさばき始めてる。それに上層部はペケだけだが、下の方はエスのいいルートを掴んでる」
 脱法もな、と窓を流れゆく街灯や店の明かりに目をやる。
「その航路をこっちへ向けてやることになる」
「存じております」
「鼎には迷惑をかけることになる」
「わかっていたことでしょう」
「これがわたしの代だけで始めて、わたしの代だけで終わらせる“家業”だ。だめだと思うならいつでもいい。お前のためならわたしはすべてをかけてあちらの世界へ帰す」
 窓の外、中華のチェーンやコンビニ、タバコの自動販売機が眩しい。
 だが、と女は外から目が離せないままに続ける。
「お前が嫌だと言わない限り、わたしはきっとお前を離してやることができない」
 ようやく女は目線を内へやった。ルームミラーを見つめれば、鼎と目が合う。
「でもきっとお嬢様は、この身に危害が加えられる可能性が濃厚になりましたら、きっと鼎を突き放すでしょう」
「…………」
「鼎はそれを拒否します」
 車は路地を進んで右手の店に乗り入れた。なんとか間に合いそうですねと鼎は言った。


「美寿々ちゃん」
 すでに相手は座敷について一杯始めていた。
「空きっ腹に日本酒はよくありませんわおじさま」
「同時に注文したんだがね、先に酒が来てしまうのは日本の悪い習慣だ」
「まあおじさま。突き出しという文化もありますのよ」
 狭い個室の、時貞の正面につく。料亭よりも格下、飲み屋よりは格上という位置の居心地のいい穴場である。
「わたしはノンアルコールでもいただきますね」
「一緒に飲んでくれないのかい?」
「まあおじさま、まだ手足で足りる子供にお酒だなんて」
「だがきみは薬を流す売人であり仕入れの大元の琴川の一代娘だ」
 違うかな、と時貞はこちらを見る。
「それでも、お酒はいけませんのよ。こと鼎もおりますし」
 すると美寿々の無類の酒好きを知る鼎が口を開いた。
「お嬢様、下がりましょうか」
「いなさい」
 にこやかだった女が強く命じる。動じもせず、鼎ははいとだけ言った。ぺしぺしと自分の脇の座布団を叩いて座るよう誘う。
「……美寿々ちゃんは鼎ちゃん溺愛だね」
「もちろんですわ、わたしの可愛い鼎ですもの」


       *


「今日一日で一億二千万か」
 うーんあまりいい結果じゃねえな、と女はまたソファにふんぞり返る。
「そこそこってとこか」
 これでおじさまのマリファナの十分の一だと、と女は笑う。
「おじさまもあくどいことをする」
「どちらへお流しになられますか」
「鼎ならどこがいいと思う」
 一瞬だけ思案し、わたしでありましたら、とつなげる。
「関西の堂山組へ流すかと」
「なら堂山に六、四は宮津へ」
 女は同じ関西の別の一派を名指しする。
「そうしたら勝手に戦争はじめんだろ。薬大嫌いな元締めの真隆会はそれに引っ張り出される」
 半年は関西が見ものだな、と成人前の女は、捨てたような笑顔を見せた。


 この社会から、幸福は消えない。

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