照れてほしかっただけの話

 彼女の指には、さかむけがたくさんある。
 もちろん家庭内の炊事やらなにやらを一手に請け負っているので仕方のないことだが、最近始めたパートでも水回りの仕事が多いのだという。業務用の食器洗剤は手のケアなど皆無だし、ダンボールを触れば皮脂はみるみる奪われていく。ハンドクリームでは追いつかない。
 僕の収入だけでは足りないゆえのパート、というわけではない。我が家には子供はいない。独り立ちしたというわけではなく、新婚というわけでもない。もともと妻が子供が苦手だというのが理由だった。
 でもひとりじゃさみしいのよ、と彼女が言うので、猫を一匹飼っている。生まれたてのを会社の先輩からもらった、アメショとミックスの子供。こいつが親に似ずやんちゃで、家の中をさんざん駆け回ってトイレ訓練中に僕のノートパソコンに雨を降らせたこともある。
 最近では落ち着いて、ご飯が終わると妻のそばか、あるいは太ももの上で一眠りするのが習慣になっている。
「真っ白だな」
 今晩も例に漏れず、膝の上でぐーぐー寝こけているぬこさん(本名)をカイロのようにしている。その妻の手を取って言った。
「さかむけ、痛くないか」
 もともと彼女は肌が強くない。エビやカニの殻なんかをむくと手の皮が木工ボンドが乾いたみたいにぺろぺろめくれるし、醤油ですぐに口の周りが荒れる。そこへきつい洗剤を触っているので、さかむけやぱっくり割れ、その予備軍で手はもうぼろぼろである。
「それがねえ、痛くはないのよね。見た目がひどいだけで」
「それでもこれはひどいだろう」
「んー、さほど気にしないわね」
 彼女はぼくに取られていない方の手でいそいそと円柱の形のハンドクリームを取り出した。近江兄弟社のメンタームというやつである。以前はQ10のいいやつを使っていたのだが、さかむけや傷が増え始めてからはきり傷にも対応しているこちらを使っている。
 妻の手からメンタームを受け取って、蓋を開ける。きっついメンソールの匂いが妻は好きだという。
 指でちょいちょいと取って、妻の手の甲にべたっとのせる。親指で塗りこみ、またクリームを足して塗りこむ。角質のようになっているところにもきっちり塗りこんで、なるべくやわらかくなるようにもにもにと揉む。
 うにゃ、とぬこさんが寝言を言う。うにゃ、と妻がぬこさんを見た。
「でもこれはひどいぞ。ゴム手袋つけて働いたらどうだ?」
「めんどくさいんだもん……洗いにくいし」
「でもぬこさんはがさがさはやだって言ってるぞー」
 なーぬこさん、と返事のない問いかけをする。
「……あなたもやっぱりいや?」
「俺?」
 どうだろうな、と目線をぬこさんに落とす。そして彼女の、いまクリームが塗りこまれている手を見た。
「お前昔言っただろ、俺のひげの伸びてじょりってするの痛いからやだって」
「……そんなこともあったかしら」
 寝起きに擦り寄って、その朝生理直前で非常にテンションの低かった彼女はガチ切れしたのだ。忘れはしない、新婚一発目の膝詰めである。
「でも多少の無精ひげは似合ってるから好きって」
「そんなことはひとっことも言ってない!!!」
「いやーあれは可愛かったよね」
「やめて昔の話は掘り返さないで! 埋めっぱなしておいて!」
 あのときは盲目だったのと彼女は顔を真っ赤にする。
 それでね、と俺はもう片方の手にも塗り込めながら続ける。
「これはお前の欠点じゃないわけだ。手がぼろぼろでも、働きたいと思ってるわけだから」
 お金の問題でなく、働きたいからといって彼女は近所のパートを始めた。家庭でおさまりたくないというわけではなく、ただ働きたいと彼女はあの日言った。
「そういうところがとてもいいところだと思うよ。つねに自分に出来ることを見ているわけだし」
 ね、と俺は手をもみもみしながら話す。うん、と妻は頷いた。


「……ねえ、さっきの昔の話は関係あった?」
「ないよ」

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