一介の大学教授が今だに謎に感じている人類の神秘

 ときに、諸君らは『腐る』という言葉の持つ意味を知っているだろうか。
 食べ物が腐る、死体が腐るなんていうのが一般的な『腐る』だが、生き物が立ち入ることができないという意味でこの言葉を使うこともある。いい例がかの有名な映画にも出てくる腐海だね。あの土地は腐乱してしまっているわけじゃない。だが猛毒の胞子だかで人が立ち入ることができない。だから腐った海という。腐った森と書かずに腐った海と書くのはおそらく鬱蒼とした木々の覆い茂る樹海と掛けているんだろう。……話がそれてしまったね。
 要するに腐るというのは触れられない、近寄ることもできないということを指すことが多い。ただの役たたずというわけでもないのは動物の死体が土に還り養分となりまた生きる糧となっていくからであり、諸君らも知っての通りだろう。生物はみな循環するというのは義務教育のうちに習っているはずだ。
 例外的には腐らせて食べるという点がある。腐るというよりは発酵という方が正しいが、あれは要するに人として口に含み養分とし得るか否かという話であるからつまりは腐らせているのだけれども、納豆なんかがもちろんその部類に入る。発酵食品だね。先人の知恵だから大切にすべき文化だ。これももしかすると生物循環の一端のように思われる。
 では逆に腐って生物循環するでもなし、食えるでもなし、役にも立たず近寄りたくもない、しかし止まらない腐敗というのが存在するというのを知っているかな?
 知らない? それは随分勉強不足だね。では教えてあげよう。


 ここに、大した役にも立たないのにおっさん受けがほしいなどとのたまっている腐ったものを紹介しようと思う。


「飢え死ぬ……! おっさん受け欲しい……!」
「てめえで生産しろよ」
「やだあああ誰か受注生産してええええ」
 うわあああん、と嘆くやかましい姉と、そのとなりでポータブルゲーム機にて地球を防衛している弟、俺。
「せっかく! 年齢制限なしで買えるBLを集め! 年齢制限取れたから同人もあさっているのに! なぜ! こんなにも! オリジナルのおっさん受けはいないの!!!!????」
 ねえ答えてよ! と弟に答えを迫るも、そもそも同人畑での生息期間の短い自分に訊いたところで答えはない。そもそもBL畑で生きていないのに訊いたところで意味はないのだが。
「なんでオリジナルになるとおっさん少ないの……?? 理解できない……おっさん受けっていうのはねぇ、おっさん同士がいちゃいちゃしてたってそれはただのおっさんBLでおっさん受けじゃないの! みんな履き違えてる! そもそもおっさんっていうのは三十五を越してから五十半ばぐらいまでがおっさんなの! わかる!? 若ーい後輩に迫られてこそおっさんなの! 若いの基準だって三十以下でなきゃ許せない! わかる!? たかだか二、三歳年下のおっさんに攻められたってそりゃただの同級生BLと変わんねえんだよおおおおおお」
 それもねえ、と鼻息荒く続ける。
「確かに眼鏡かけたひょろりとしたおっさんの受けは多いわよ、そりゃそうよそうしたら若い子が攻めても体格差ないもん! でも違うじゃん! 世間にはGACHIMUCHIっていう文化があるじゃん!!! なんでそこにおっさん受けが適用されないの!? GACHIMUCHIのおっさんが受けるのは許されないの!? そこに学生のイケメンが攻めるのは許されないの!? ハタチそこそこの大学生と四十ぐらいのおっさんでいいの、せめてどこかに落ちてないの!? ねえ!?」
 どかんとテーブルを叩く。自分が勘定しただけでも本日六回目の全力拳である。いくら値段のする学習机だったとはいえ購入からすでに十五年近く経過しているのにうっかり壊れたらことである。
「こないだその手のん見つけてからそればっかりやな姉貴」
 姉は先日、母と行った古本屋で発掘してきた筋肉隆々な可愛らしいおじさん受けで、中学生が攻めで、終盤の切なさが尋常じゃないというまさに理想、という漫画を手に入れた。何度も読み返したらしいのだが、正直腐敗の欠片もない弟である自分からしてみれば全く意味がわからない。中学生の息子といったらば……いや下世話な話はやめておこう。
「二次やったらタイバニあるやんけ」
「タイバニのおじさんは確かにGACHIMUCHIだけど若干年齢が達してないんよおおお好きやけどおおお」
 公式でこうと決まっているわけではないが、十年以上活躍しているヒーローという設定上、二十歳くらいから活躍していても現在三十歳前後、娘の年齢を考えても三十五歳より下の可能性が強い以上、確かに足りていないといえば足りていないが。
「バーナビーがハタチくらいやったとして、十歳は差ができるで?」
「節子実年齢やない、年齢差や。せめて十五歳! できれば二十歳以上の差が欲しい!!!」
「無茶言うな」
 だあってぇ、と座椅子に座っていたのを寝っ転がってうねうねし始めた気色悪い姉を横目に見ながら、――あっやばいペイルウイング死ぬ。
「どうして少ないの……? 最近のはやりが子供のいる男やもめと独身男のBLだなんて誰が言ったの……?」
「……知るか」
 なんだそのはやり。そのツッコミはなかったことにして内心で打ち消し、私はそんなものよりはヤクザものか警察ものかなどと正直耳を疑うようなジャンルを口にする姉を冷たい視線で見つめる。見つめ合うと素直におしゃべりできないのはこういう時にも適用される。
 そうだ、と名案を思いついたらしい姉がとてもいい笑顔でこちらを見た。
「僕と契約しておっさん受けライターになってよ!」
「僕と契約してお財布になってよ!」
「それは無理や」
「やろな」
 姉の金欠事情はよくわかっている。バイトを始めてもなお節制しているのは定期が効かないあいだも所用で大学へ通う交通費に使うから――というのは建前でただのケチなのだ。通帳からお金を引き出してもなるべく手をつけたがらない。あとは同人やグッズを買うために貯めているらしいのは大阪のオタクメッカ日本橋へ行って帰ってきた時の顔の輝きとメイトやとらのあな、らしんばんの袋の類でよくわかる。
「商業で探してもなかなかないんでなー」
 ちるちる、という商業から商業同人(商業で仕事をしているが同人も出している)まで扱っているその手のもの御用達のサイトがある。学生×おっさんで受攻検索をかけてもあまり出てこないのが実情だ。というよりもまず年齢で引っかかっているのにその上ガチムチなど出てこない――失礼、GACHIMUCHIだったか。
「なんでないんやろ……おかしい……世界は狂ってる」
「案ずるでないてめえが一番狂ってる」
 うーんうーんとぐるぐるしている姉に、一つ言葉を投げる。
「同人は?」
「あのへんって、一度出るとなかなか再販かけへんし、なかなか古いのは入手できんな。めろんとかで買えたらよかってんけど、今はあそこのめろん女性向け同人誌扱えへんし」
「……」
 くわしい。おそろしいくらいにくわしい。
 くわしいうえにもうその手の話は聞きたくない。
「姉貴、俺部屋帰るわ」
「あってめこの野郎待てくそ!! おい!!」
 人の話を聞く間も持たせず、俺はそそくさと姉の部屋のドアを閉めた。


 というわけで諸君わかっていただけただろうか。わからない、それでいいんだ。本当によくわからないものだったのだよわたしの姉は。
 質問はあるかな? ……ふむ、現在の姉のことかい? 彼女なら先日日本を旅立ってね。……おいおい馬鹿を言うな、死んではいない。どこへって、海外に移住したのだよ。もう彼女も還暦を過ぎてね、そろそろ第二の人生だなんて言って向こうにマンションを借りた。ずっと住むつもりのようだが、今後も春には帰ってくるつもりのようだよ。夏と冬はアスファルト敷きになったあの場所は老体には厳しいなんて言って……秋じゃない理由? コミックマーケットというのを諸君らは知っているかな?
 もう質問はないね。それでは課題として……えーとは言わないのだよ諸君。テーマは『サブカルチャーと日本文化の共通点』でだいたい二千字程度。……諸君らは文句が多いね、大学にはなにをしに来ているんだい? やりたくなければやらなければいいんだ。かわりに早晩単位を失うがね。なんだい……萌えに来てる? ……そうか、わたしも多少は理解できるがね、どうやら方向性は違うようだ。今度姉に紹介してあげよう、あの年で自分の趣味に関しては最先端を走っているよ。
 以上だ、チャイムはまだ鳴っておらんが、ここで終わるとしよう。諸君忘れ物をしないようにな、先日この部屋に誰かテキストを忘れていっただろう。……この授業に教科書はない? 察してあげるのが諸君らの仕事なんだがな……同人誌のことだよ。

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