女神

『目一杯我慢してるよ』
 人には誰しも、忘れられない言葉というものがある。
 感動した言葉、悲しい言葉、突き刺さるように的を射た言葉、人生を左右する言葉。
 俺は友人が言ったその一言が、いまだ忘れられずにいた。

「ごめんな千華子」
「千華子、お父さん仕事が入ったんだ」
「この間の約束、また今度にしような」
 うん、うんとさみしそうな顔で、千華子はいつも頷いていた。
 ごめんな、千華子。
 大丈夫だよ、お父さん仕事だもんね、仕方ないね。
 いつもそう言わせていた。

 この梅井家に、母と称される人物はいない。
 父であるところの僕と、娘である六歳の千華子の二人暮らし。
 離婚家庭、というわけではなかった。

 朝六時に起き出して千華子と自分の弁当を作り、七時に千華子を起こす。着替えと髪支度を手伝い、八時前に学校へ送り出す。
 家を出る前、千華子は有希子への挨拶を欠かさなかった。
「行ってきます、お母さん」
 フレームに飾られた、まばゆい笑顔。手を振って、千華子は家を出る。
 それを追うように僕も家を駆け出し、出社する。
 それがいつもの朝だった。

 夜勤や泊まり、イレギュラーに出社する日が多い職種の僕は、よく千華子との約束を反故にした。プラネタリウムに行こう、遊園地に行こう、ドライブに行こう、ご飯食べに行こう、誕生日を祝おう、お墓参り行こう、親子参観日は行くよ。
 今まで、叶えてやった約束よりも反故にした約束の方が多いと思う。
 僕だって心苦しかった。我慢させていることはよくわかっていた。
 それでも仕事に行かなければいけないし、千華子も幼いながらにそれをわかっていた。
 だから僕は甘えていた。
 千華子のその優しさに。

「なあ、訊いていいか」
 昼休憩、社員食堂の片隅。僕がいつものように弁当をがっついていると、となりに友人が座った。社員合同宿舎に住んでいる僕らの、真上の部屋に住んでいる志木だった。来年中学に上がる巴ちゃんには千華子とよく遊んでもらっている。
「ああ、志木」
 急にどうした、と志木を振り返ると、やつはカレーそばをすすった。
「千華子ちゃんだけどさ」
「千華子? なにかしたのか」
「いや、巴が妙なこと言っててな」
「巴ちゃんが? なんて言ってた」
「『千華子ちゃん、すごくいい子だね』」
「・・・で?」

「『千華子ちゃん泣いたところ、見たことないよ』」

 お前は? と志木が俺を見た。
 ずるる、とすすったそばのカレーが頬に飛んでいる。
「・・・俺も、最近は、ない」
 そっか、とまたカレーそばに目を戻す。飛んでいるのに気づいて、そばにあった布巾でちょいちょいと叩く。
「目一杯我慢してるよ、多分。俺が言わなくてもわかってるかもしれねぇけど」
 ちょっと話してみな、明日休みだろ。メガネがくもって見えなくなったその瞳の奥、志木は笑っているように見えた。

「千華子」
 帰宅し、ご飯をせっせと作りながら、そばでぽてぽてと食卓の支度をしていた最愛の娘に声をかけた。
「なーに?」
 上目遣いで猫っ口なその愛しい顔に吸い込まれる。
「千華子、いつもごめんね」
「うーん?」
 なにが、と首をかしげるので、膝を曲げて、ごつ、と音がする勢いで中腰になった。エプロンが突っ張って邪魔になるが、取り払うのも億劫でそのまま放置する。
「千華子、お父さんに言いたいことないか?」
「言いたいこと?」
「そう」
 うーんと、うーんと、と首をかしげて、目を巡らせて、なんだっけなんだっけと思案する。
 あ、そうだ、と叫んだ時に、きらきらとした目がこちらをまっすぐに見た。

「お父さん、いつもお弁当ありがとう!」

 星のように、千華子の周りをまわるきらきらとしたなにか。
 その星がせり上がり、ぼたりと落ちる。立て続けに重そうに落ち、しかしきらきらと千華子を照らしている。
 たどりつけない未知の領域。うつくしすぎるその、果てのない純粋な千華子が、今とても手の届かない、星に守られる女神に見えた。
「お父さん、どこか痛いの?」
 顔を覆いもせずぼたぼたと情けなく泣いている父に駆け寄る。
「泣かないでお父さん」
 よれたシャツ、シワの入ったスラックスに年季の入ったネクタイ。その裾をぎゅっと握り締めた千華子があまりにも苦しくて、そのからだをぎゅっと抱きしめる。
 情けなさすぎるほど、涙が止まらない。
「笑ってるお父さんが、千華子いちばん好きだよ」
 あのね、とまるで大人びてしまった娘の声が耳に染み込んでくる。

「いっぱい笑ってほしいからね、千華子いっぱい我慢できるよ」
「お父さん頑張ってるもん、千華子も頑張るよ」
「さみしいけど、いっぱい頑張るよ」
「お父さんが大好きだもん」

 おとうさん、と話す声が掠れ、嗚咽があふれてしまいには大泣きしている。

 千華子がひどくいとしく思った。

 こうして、どんどん甘えてしまうのだろうか。
 この小さなからだに、どんどん甘えてしまうのだろうか。
 言い訳をして、もっともらしい正論を振りかざして。

 そばにいてほしいと願う心にへばりつくような罪悪感が、まとわりつく。
 重くて、どこかずるずると引きずる。

「・・・千華子、こんどこそ、どこか行こうな。考えておいてな」

 こうして俺は、最低な人間に成り下がっていってしまうのだろうか。

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