捨てられる想い出なのなら

「別れないか」
 夜ももう更けたマンションの自宅、コーヒーを飲みながらの誘いだった。
 なにもつらくない。つらいことなんてない。
 そう言い聞かせながら、わたしは静かな安らぎの中で口火を切った。
「・・・」
 目の前の彼、もう付き合って三年になるひとつ年下の智紀は、静かに黙っている。
 不自然な静けさの中、もう一度言った。
「智紀、別れよう」
「どうして」
 眉間にしわを寄せ、苦しげに吐く智紀。
「千春さん」
「好きな男ができた」
 まんざら嘘でもないような嘘だった。
「・・・俺よりも?」
「でなければ別れようなんて言わないだろう」
 コーヒーを一口すすり、間合いをとる。
 わたしも馬鹿だよなぁ、と内心苦虫を噛み潰す。順風満帆だったはずなのに、・・・まあ恐らくはわたしのせいなのだろう。
 これからも彼を守るために。そう心に決めて、再三口にした。
「・・・聞き入れてくれ、智紀」
 お前のためなんだ、ただその一言は言えなかった。

 彼の淹れる一杯のコーヒーが好きだった。
 三年と少し前、ひとり仕事帰りに初めて行った彼のカフェで、一目惚れされたのはわたしのほうだった。
 付き合い始めて知ったことだが、その時私には特別に仕入れたての新豆で淹れてくれていたのだという。無論そんなものは知るはずもなく、週に一度か二度は日替わりのおすすめコーヒーを注文してカウンターで彼と談笑した。
 楽しかった。年に数回店を閉めては行く仕入先での珍事件や、若くしてこの店を親から継ぐことになった経緯、この間読んだ小説、ムカデとバトルした日曜日の話。
 たくさん話した。
 男みたいな口調がかっこいいと言われたのはもう何度かわからない。
 楽しくて、毎日の仕事のご褒美になったころ、彼から告白されて付き合い始めた。
『お、おうちで、俺のコーヒー、淹れさせてくれませんかっ!』
 ヤバイかわいい、そう思う前からもう心は決まっていた。このまま結婚するんだろうな、そこまでもう見通していた、つもりだった。

 こうなるまでは。

 別れ話から遡ること二日。
『お前に見合いの話がある』
 そう父親に言われたのは、週に一度は家に帰れと父に言われて指定されている月曜日の朝、まずいインスタントコーヒーを飲み終えようかというときだったと思う。
 もっと美味いやつだってあるだろうに、なぜかいつもこのメーカーのやつを濃ゆく淹れるのが習慣らしい。智紀のコーヒーに慣れてしまってからはその不満はなお大きかった。
『・・・見合いですか』
『なにか不服か』
『まあ毎日不服ですけどね』
 苦い粉薬だと言わんばかりに一気に飲み干す。ゴンッと机に叩きつけるようにマグをおいて、そして叫んだ。
『お付き合いしている方がいるんですよ』
『そうか』
『・・・』
 えらく早い切り返しだった。それも肯定するような。
『もういっそ彼と結婚しようかとも思っていますが、連れてきましょうか』
『・・・必要ない。それと、今日は会社を休め』
『は?』
 なに言い出すんだこのくそジジイ、そう思ったときには顔に覚えのあるメイドが二人、脇にいた。振り切って出社してやるよと意気込んで立ち上がると、そのまま二の腕を両方抱き込まれる。
『・・・なにを』
『これから見合いだ。今度は逃がさんぞ千春』
『馬鹿なことを。無理に言うことを聞かせるおつもりですか』
『そうでもせんとお前の生きている意味がないだろう』
『は』
 言われた意味の理解に苦しむ。しかし今まで散々聞き流してきた言葉だったことに気付いて耳を塞ごうとした。
 ・・・が、阻まれた両脇のせいで聞き流せずにすべて耳に収める。
『お前は“フリューリングズ”を発展させるための駒に過ぎん。たった一人しかできんかった子供だ、役立たずに育て上げた覚えはないがな』
『・・・っ』
『出発は九時だ。三十分そこそこで仕上げさせろ。行け』
 女二人とは思えない力強い引っ張りに負け、わたしはずるずると引きずられるようにクローゼットルームに連れ込まれた。

 フリューリングズ。
 それはわたしが勤める大手化粧品会社の名前であり、そして父の会社だった。
 社長令嬢なんて堅苦しいものになりたくてなったわけではないが、隠し子の一人もいなかった父の跡はわたしか、もしくはその夫が社長の座に収まるつもりにしていた。
 血の濃さをなによりも優先する父を、その部分では仕方ないとあきらめ、自分的には不必要な財産のために経済学を学んだりもした。ただ智樹と付き合い始めてからは最悪は副社長に譲ってもいいやと思っていた。
 しかし父は納得しなかった・・・聞く耳も持たなかったらしい。それを知ったのは見合い会場でだった。

 見合い相手はパーティやらでよく見知った相手だった。
 以前から父が懇意にしていた医薬品メーカーの御曹司だった。いや、次男だから御曹司ではなかったかも。
 そうだ確かもう長男が取締役を継いだはずだったなと思い返す。
『お久しぶりですわ』
 この見合いがどうなろうと、今後も社の未来にかかわる取引相手。
 いつになく丁寧に、物腰柔らかを演出し、新調したらしい桃色の振袖を昔からの慣れと親しみで操縦する。
『ご無沙汰していました、千春さん。今日はよろしく』
 彼の常に相手より上に立っていないと気がすまないらしい性格は、幼いころから変わっていない。
こいつの兄貴はとりあえず体面を繕うのがうまくて我を出さないいい感じのやつだったが、こいつはどうしても好きになれん。いくらスリムスーツ着てもその出っ張った腹はいつもこんにちはしてんだよこの豚野郎! お前あたしと同い年とか言いながらじつはもう三十越してんだろ!! ぶってくださいお姉さまとか言ってみやがれー!  と内心では激しく鞭打ちながら、にっこりと輝かしい笑顔をさらす。
『急でしたわね、わたし今朝までなにも知らずに普通に出社するところでしたのよ』
『そうでしたか。お父様も人が悪い』
 はははとか笑う男。もうここまでくるとおっさんだな。最大級のイライラをぶつける。
『驚きましたわ。もうあなたとのお見合いは何度目? もう三度はいたしましたわよね』
『四度目ですよ。どうしても双方僕たちを結婚させたいようですね』
 したくねぇよわたしの相手は智紀だってんだバーカ!
 イライラも頂点に達し、そろそろ茶菓子でパイ投げでもして帰ってやろうかと思ったところで男が分厚い唇を開けた。
『・・・工藤、智紀さん?』
 ごっくんと噛まずに思いっきり茶菓子を飲み込み、えづきそうになりつつ必死で飲み下す。
『・・・は?』
『現在付き合っていらっしゃるんですよね? 彼と』
 ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。なにかいやな予感がする。
『カフェを営んでますよね。なかなか美味いそうで』
『・・・なにが言いたいんでしょう』
『やだなぁ、僕と結婚しなきゃ彼をあそこから追い出して新しくコスメショップを建てるおつもりだそうですよ? あなたのお父様は』
『・・・は』
『もう手筈は整ってるみたいですね。あとはもう彼を追い出して店を解体するだけだそうですけど』
『そんな勝手なこと・・・彼が納得すると思いますか!』
『せざるを得ないでしょうね。彼には借金があるようで?』  目を見開いた。
 なんだそれ。そんな話は知らない。
『彼は君の社長の座でも狙ってるんではないでしょうか?』
 そ、んなわけあるか・・・。
 弱く呟くと、彼から返事ともいえない言葉があった。
『ねえ千春さん。これは商談ではありません。取引ですよ? もう話し合いの時間は終わってるんです』

 あのカフェが潰される。
 それは嫌だった。
 彼と別れて二度と通えなくなっても、彼にはまたあのおいしいコーヒーを淹れていて欲しかった。

 わたしは取引を承諾した。

 そして彼に別れを告げ、無理やり納得させた。
 そのときにも智紀は借金の話や本当のわたしの身分についてなにも言わなかった。
 三年間が無に帰った気がした。

 そして、智紀との関係は途絶えた。

 もともとマンションから会社までで一番近い行き帰りの道だったぶん、普段は避けても時々物寂しくなっては通る。
 店は存続していた。
 何度通っても彼は店内のカウンターでコーヒーを注いでいた。智紀のコーヒーが口の中を通っていく感じがした。
 籍こそはまだ入っていないが、籍が入ってしまえば最後、あのマンションは引き払ってあの次男坊の家へ転がり込むことになっている今、もうここを通れるのはあと何回かと考えていた。

 男から夜のホテル、そしてベッドに誘われたのは見合いから一ヶ月ほどのこと。
「いやー絶景だね。君を抱きたいと何度思ったか知れないよ」
 もうその頃にはすべてを諦めかけ、一種の蝋人形のようになっていたわたしは、そうですかとだけ呟いてすべてを脱いだ。
 男は殴るのが好きらしかった。そして荒くたく抱くのがこの上ない幸せらしかった。
 初めは少し抵抗した。そして叫ぶと彼はさらに満足した。
 見た目に反してサディスティックな気分を味わうのが好きらしかった。
 そして痛みに気絶しては朝を迎えた。
 会社で怪しまれるから顔はやめてと言うと、じゃあ出社しなければいいじゃないかと切り返してくるので父のためにもそれは嫌だとなだめすかした。
 現在は長袖のシャツとパンツスーツで隠れる部分ならどこかに痣を作っていた。キスマークなんてかわいいもんじゃなく、生々しい青黒い内出血を。
 そろそろ刃物も持ち出すんじゃないかと言うような頭のいかれた男だった。
 失敗したとは思ったが、死のうとは思わなかった。
 入籍しても仕事は続けていいといわれていたので、しばらくはまだあの道を通える。
 週に二度ほどインしているこのホテルからもあの道を通って会社に行けるのでうれしい。
 彼が送ると言うわけがないし、闇討ちにあうような危ない立場にはいないので、これからもまだ歩いて通えるだろう。
 そうすればまたあの前を通れるのだ。それだけを楽しみにしていた。わたしは完全に駒だった。

 智紀と別れて四ヶ月。
 夜、マンションに着いて、わたしは激しく肩を上下させていた。
 智紀にバレたかもしれない。
 好きな男ができたから別れろと言った女が、名残惜しそうに通っていることに気付かれたかもしれない。
 暗がりだった。当然だ、もう七時を回っている。
 閉店時間が予約必須のディナータイムを含めて九時半である智紀の店は明るくとも、外は夜、真っ暗なはずだった。なのに目が合った気がした。
 いや・・・気がした、ではなかったと思う。・・・これまでにも何度かあった。
 不意に顔がこっちを向きそうになって慌てて早歩きしたり、色々。
 ただ今日は決定的だった。
 完全に目が合った。
 真顔で、真剣な瞳でこっちを見た。
 落ち着け、そう自分に言い聞かせてスーツをハンガーにかけてシャワーを浴びた。
 一人暮らしで少し生き方を学んでみたい。化粧品も、自分の給料で買える範囲で本当に欲しいものがなんなのかわかったら、これからに役立つ気がする。
 そう言って無理やり押し切ってこのマンションを買った。無論ローンを組んだ。
 払ってみたい、そこまでやってみて初めて化粧品を考えたい。
 そうも言ったな、と懐かしく思った。
 鏡を前にして懐かしむ。
 夏前の今、そろそろ長袖も限界だから今欲しい化粧品はBBクリームかな。昨日左腕と大きめに脇腹、そしてどぎつく鎖骨辺りにつけられた青痣を見て苦笑した。
 その痣が消える前にまた新しくあの男につけられる。
 お湯を出した。まだ生傷が残っていたのか、太ももがお湯に少し染みた。

 キャミソールの部屋着を着て、キッチンに立つ。
 スティックサラダでいいかときゅうりやら茹でにんじんやらを切っていたとき、玄関チャイムが鳴った。
 宅配? 夜中までご苦労さんです、となむなむしながらカメラインターホンを見た。  心の隅で思っていたとおり、わたしは甘かった。
「・・・・・・智紀」
 こちらを覗いていたのは智紀だった。
 通話ボタンを押そうとしてやめる。
 電気がついている以上、居留守は使えない。そうでなくてももうわかっているだろう。
 まさか勘付かれた? やっぱりバレてた?
 息を整える。
 机にかけてあった長袖のトレーナーを被ってドアを開けた。

「智紀」
「・・・千春さん」
 すべてわかっているとでも言いたげな表情で、智紀は言葉を続けた。
「あがっても、いいですか」
「・・・どうぞ」
 一瞬悩み、大丈夫だろうと踏んで智紀を部屋に上げた。失礼しますと玄関で靴を脱ぐ。
 がちゃんとドアを閉めると、彼は以前から使っていたスリッパをラックから出してきて勝手に履いた。
 別段こちらも気を悪くすることなくそのままリビングへ入る。
「・・・変わりませんね、この部屋」
「そうか?」
「はい」
 ふっと見回して、そして視線がわたしに戻ってきた。
「・・・さっき、店の前通りましたよね、千春さん」
「通ったよ。逃げて悪かった」
「やっぱり逃げたんですね。今日だけじゃないでしょう」
「しばらく様子伺ってた。時機を見て入ろうかと考えてた」
「そうでしたか」
 力の強い目で見据えられて、思わず逃げたくなったわたしはソファにいざなった。
「野菜スティック、食べるか?」
 さっきまで切っていたにんじんを切りきって、コップに突っ込む。
 マヨネーズにしょうゆ、七味を入れたお猪口ごと差し出してみると、いただきますと言ってスティックに切ったきゅうりを一本取った。私はにんじんをとって同じように食べる。
 しゃくしゃくととりあえず一本かじったところで、智紀の視線に気付いた。
 眉根を寄せ、なにやら訝しげな・・・。鎖骨の辺りを見られている気になって、少し身じろぐ。
「どうした智紀?」
「・・・千春さん」
 神妙な声で呼ばれて、なぜかぞくっとする。背筋が凍るような・・・。
「・・・どうして、僕を部屋に上げたんです?」
「?」
「新しい男がいるんでしょう?」
「・・・ああ、いるけどね。いくら元彼でもあの場で突き帰すのもどうかって話だろう?」
 やましいことがあるわけでもなし、と笑ってみせる。
「じゃあもうひとつ聞きます」
「なんなりと」
 にんじんをもう一本とって、銜えようとしたときだった。

 急に智樹は行動を起こした。
 座っていたソファに勢いよくわたしを押し倒し、トレーナーの襟元に手をかけた。両手を智紀の左腕に封じられ、腕の痣が少し痛んだがやり過ごした。
 いつになく荒い。
「なんだ? 急に発情したか?」
 からかい口調で言うと、智紀は怒ったような声を返した。
「ふざけないでください」
「明らかにふざけてるのはそっちだろう。なにする気だ」
「さあ。大人しく上半身だけでも見せてくれたら万事オッケーですけどね」
 それが一番まずい。
 鎖骨には婚約者につけられた痣がある。
 ・・・とは言えず必死で抵抗した。
「・・・っやめろ!」
「嫌です、確認するまで俺はやめない!」
 聞いたこともないような声で叫ばれ、一瞬ひるんだ。その一瞬の隙をついてトレーナーを捲くられた。
「・・・っ!」
 智紀が息を呑む。
 青黒く、我ながら痛ましい痣を見られ、観念して力を抜くと、キャミソールごと上半身を剥かれた。脇腹、鎖骨、そして腕と、痣を確認した時点で彼は手の力を緩めた。
「・・・・・・なんですか、これ・・・」
「痣だな」
 あっけらかんと言うと、今度こそ智紀は怒鳴った。
「誰につけられたんですか! 新しい男ですか!?」
「こけたんだよ。馬鹿だな、早とちりも大概だぞ?」
「こけただけで鎖骨やら腹やらに痣ができますか!?」
「できたんだよ」
 運悪くな、と笑うと、そっと脇腹の痣に触れられた。
 痛みと一緒に懐かしい温もりを感じて、顔をしかめる。
 思い出すな思い出すな、わたしは人形で、あいつのおもちゃで、もしこいつの温もりなんか思い出したらもう耐えられない――・・・。
「・・・嘘、言わないでくださいよ千春さん」
「嘘じゃねーって」
 かんちがいばかやろ、と言ってやると、智紀の顔が一瞬泣きそうになった。
「千春さん、俺千春さんがいいです」
 ただ押し倒されるだけになっているわたしは、やつの顔を下から眺めていた。
 今にも泣きそうだった。どちらがとはもうわからないが。
「嘘ついてもわかります、なんかよくわかんないですけど千春さん、暴力受けてるんでしょう? 尋常じゃないですよこの痣」
 わかるけどわかんないってなんだよと突っ込む余裕はなかった。
 なんでそんなやつと付き合うんですか、と言われたらもうたまらない。
 ぽろ、と目からこぼれた。なにがとはもう考えたくなかった。
「そんっ・・・それはないって、はは、お前ドラマの見すぎだろ」
「じゃあなんで泣くんですか」
「べっ別に泣いてなんか」
「それは嘘になりませんよ」
 くしゃ、と彼は笑った。
 ぼたぼたと頬からこめかみからを伝う涙はもうごまかしようがない。
 ・・・ひとつ、無駄かもしれないが訊いておこうと思った。
 頬の涙を拭く。
「・・・お前、わたしの勤めてる会社は知ってるな?」
「“フリューリングズ”ですよね」
「そこに社長令嬢がいるのは知ってるか」
「まさか女の人と付き合ってるんですか!?」
「落ち着けそれは違うから」
 まあ大方わたしの身分は知らないだろうと見当をつけ、もうひとつ訊く。
「智紀、借金あるか?」
「はい!?」
 飛び出しそうな目玉に、逆にこっちが驚く。
「な、ないですよ! アパート借りてるわけでもないし、賭け事とかもしませんし! なんなんですか急にー!」
「・・・なんでそんな慌てなくても」
「この間客の前で詐欺メール届いて散々大騒ぎしたところなんですよ!」
 もう怖かったんですからと散々わめく彼が面白くて、ついぷくくと笑いを漏らす。
「ちょ、もうほんとにやばかったんですよ」  と逆に半泣きな彼を見て、わたしはうっかり大笑いする。
 馬鹿らしい、騙されていたのはわたしか。
 決意を固める。もう覚悟は、できていると思う。
「悪かった・・・もっかい付き合わないか」
「当たり前です! っていうかその痣作ったの誰なんですか! まだ教えてくれてませんよ!」
「わたしのケータイ取ってくれたら教える・・・ついでにほかにも色々話してないことあったから」
 幸せってこれか。くそう手放すんじゃなかったかもしれない。
 ケータイを手にして、アドレス帳から一件呼び出して応答を待った。はい、と声が聞こえて話しかける。
「・・・もしもし、叔父様?」
“ああ、千春ちゃんかい? 元気だったかな”
「もうへっちゃらです。叔父様、副社長としては会社を乗っ取る気はおありですか?」
“千春ちゃんがしたいなら僕はやるよ”
「・・・覚悟を決めていただくときが来ましたわ。やっぱりわたし探偵でも雇って智紀を調べるべきだったと思いますの。全部嘘っぱちよ」
“だがプライバシーに触れたくないと動かなかったのは千春ちゃんだったじゃないか”
「あとの祭りですわ。馬鹿らしい遠回りをしました。社の動向は?」
“一部反発があるが大丈夫だろうね。もうあと三年もすれば定年のおじさまばかりだから”
「では今晩動きます。そちらも不服申し立てよろしく」
“あの男の元へかい?” 「いえ、ボンレスハムに興味示したことは生憎ないんです。狸ジジイと直接やりあいます。全権放棄の線で行きますのであとはご自由に」
 さよなら叔父様、とだけ言い残して電話を切った。
 わたしの上で不可解な顔をしている智紀の手を引いて立ち上がる。 「なに、えっと・・・どういう?」
「来ればわかる。少し待て」
 ハンガーに引っ掛けてあったパンツスーツを引っ張り出し、ブラをつけてそれを着用する。
 アタッシュケースに資料やらファイルやら封筒やらを突っ込み、立ち上がった。
「さて、行こう」
 やっと年下らしい表情になった彼の手を引いて、わたしはドアに鍵をかけた。

 いつものほうではない、重役用の役員ICカードをキーに突っ込んで“フリューリングズ”最深部に入る。
 さっきからの厳重なキーロックを見て、智紀ももうすでにわたしがただ者ではないと気付いているに違いない。黙ったまま手を引かれている。
 ひときわ大きな木製のドアの前で、足でドアをノックした。
「・・・はい」
 奥で声がして、勢いよくドアを蹴った。
 普通は開かないのだが、実は蹴り方によってはそれだけで開くことをわたしは知っている。そういう点はここの警備は甘い。社長室とは思えない。
「お父様、ご機嫌麗しゅう。四ヶ月も手の込んだ精神崩壊にお付き合いいただきどうも?」
「ふん、なんのことだ」
「わたしをマインドコントロールとかにかけるおつもりだったんでしょう? お生憎さま、もう効きませんわね」
 横でぼそぼそと「社長ってなんだっけ、で、お父様が社長で社長がお父様でお嬢様がお父様で」ともう完全にヒートした智紀を内心大笑いしながら続ける。
「不服申し立てがなされていますわ。もうお気づきですわね」
「・・・」
「まあ正直叔父様がその辺はうまくやりますわ。わたしがしたいのは全権放棄」
 父は目を見開いた。・・・がどこか芝居がかっているようにも見える。どこまでもつかみ所のない・・・。
「今後私が継ぐはずだったであろうフリューリングズ本社および子会社、その財産、権利相続の一切を、わたし秋月千春はこの場この時をもって放棄します」
 そしてアタッシュケースを開けた。
 中身をぶちまける。今までしてきた仕事の資料、契約書、社内賞、そして家族の思い出の写真――・・・。
「同時に、あなたとは絶縁する」
 前を見据え、はっきりと声に出した。
「もう余所見はしない。それでもわたしを愛したいのなら追いかけて来い。しばらくは叔父様の家で世話になる」
 にっと笑って、智紀の手を引いた。
 あの婚約者にしても父親にしても、暴君な男だった。
 しかし幸せはここにある。

 自由の寂しさを、少し、胸に感じた。

inserted by FC2 system