長くない夜

道の辺に 清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ

「柳、取って」
「はいはい」
 テーブルの端のチャンネルくんを手渡す。もう慣れた動作である。
 今しがた終わった番組からチャンネルを変え、ニュースにする。この間まで暖かかったのに寒波がまたやってきていて、その吹雪いている様子が映し出される。北日本はまだまだ寒いという。
「考えたくねえな」
「まあ北はまだしばらく寒いからな」
「まさかまたこっちにも寒波とかねえよな」
 勘弁してくれ、と肩を落としている。
「悪いがお兄ちゃんはお前が北に転勤ってなってもついて行かないからな」
「ひっでえ兄貴だけど海外に出た時もついてこなかったな」
「当たり前だが清水が働いて俺は一日中コタツムリしてていいなら喜んでついて行くぞ」
「働けよヒキニート」
 清水はげらげらと笑う。実際には無理な話なのでふたりして爆笑する。
 あーあ、とひとしきり笑ってからさっきまで発泡酒の入っていたグラスが空なのに気づく。
「清水」
「わかってるっての、上善如水?」
「お前も飲むだろ」
「あたり前田のクラッカー」
 どっこらせ、と立ち上がる。こたつから出たくねえというのはいつもの話である。
「おちょこ二つなー」
「へーへー」


 双子の弟、清水と就職を機に実家を出てこのマンションに暮らし始めてもうそろそろ八年。
 お互いヒキニートだのと言い合っているが、結論から言えばヒキニートどころではない多忙を極めるただの社畜である。
 清水はSEながら転属の多い部署に属する転勤族だ。先述した八年のうち、だいたい五年ほどはサウジアラビアだかエジプトだかの支社にいて、帰ってきた時には日焼けして兄弟の見分けが一目でついた。
 柳はというと一介の公務員だ。扱いは地方。いわゆる教師というやつだ。小学校に勤めていて、今は六年生を担当している。
 就活の時の思い出としてこんな話がある。教職に就くと告げた時、清水はげらげらと腹を抱えて笑い転げた。

 あんなに憎んでた教師に柳がなるのか、と。


「ところで北海道に転勤になりました」
 そう清水が切り出したの上善如水を三分の一ほど空けたころだった。
「まじかよ」
「残念ながらまじです」
 おちょこの底に残った酒をすすって飲み干しながら清水は言う。
「寒波やべーのに行くのか」
「上司に行けって言われちゃあねー」
 寒くたってパソコンは暖かいんだ……と変態じみた声でにやける。心底弟を気持ち悪いと思った。
「期限はあんの?」
「一応三年ってなってるけど、二年になるかもだし四年になるかもだし。五年以内には戻してもらうようにはなってるけど」
 なんせ独り身は飛ばされやすいですよ、とみかんをむく。一昨年異動になって家により近い小学校に配属になった柳は嬉々として報告した異動を、清水は淡々と言う。
 同じ転勤でも、こうもさみしさが違う。
「いつから?」
「この春には向こうで。だからアパートかなんか探さんと」
 そうだな、とおちょこの中身を空ける。せっかく買った家も、住んでいるのは柳ばかりで清水はほとんど在宅していない。清水がここの家賃を折半で払ったのは通算しても二年かそこらだ。せっかくの2DKもほとんど活用されていない気がする。
「四度目の単身赴任おめでとう清水」
「ぜんっぜん嬉しくねえ……」
「餞別は百万本の薔薇にしてやろう」
「すげえ、男がもらって嬉しくないプレゼント百選の上位三位に入ってるものをチョイスしてきたぞこのくそ兄貴」
 そろそろ日本酒からチェンジするつもりなのか、清水がおちょこに継ぎ足す気配はない。
「お酒変えるんだったらお兄ちゃんはワインご所望です」
「はいはい」


 先に酔いが回ったのは清水だった。どちらも強いのだが、だいたい妙に早いピッチで飲みまくって足元がふらついてそのへんで寝っ転がるのが清水である。清水が潰れる頃には柳も飲むペースがかなり落ちているのでそのへんでストップになる。
「清水、清水」
 揺らしてもウンと言う程度になってしまうのがつねの清水である。今回も違わず「ウン起きてる」とだけ返してきた。酔っぱらいによくあることである。
「よし寝てるね」
「寝てないぃ」
「はいはい」
 座布団をくるっと折って頭の下に入れてやり、ついでにブランケットをかけてやる。もうこうなってしまえば起きないのだが、清水の場合はベッドで寝ない日が週に一回はある。
「仕方のねえ弟だっての」
 俺明日も仕事だぞ、と言い聞かせると、ウン、とまた生返事というか無意識の返答が返ってくる。
「ずっと仕事だからな」
「ウーン」
「お前と寝るのもあんまり数ないからな、言っとくぞ」
「ウーン……」
「わかってんのかばか」
 おい、とつついてやるも、清水に意識はない。ばか、ともう一度繰り返してから、俺も寝るかとワイングラスを二本、片手に持って流しに入れた。


 明日のスケジュールを確認して、学習範囲をおさらいしてから支度をした。明日は三時間目が白プリテストだ。塾なんかのテストとは比べ物にならないほど簡単なテストから考えれば、子供たちの余裕ぶりは見て取れる。
「……」
 ベッドに沈み込んで、時計をちら見する。午前一時、睡眠時間は五時間半を切っていた。
 どうしてもさみしくて仕方なくなるこんな夜、柳は癖で昔を思い出してしまう――苦々しい過去だ。それを寝物語のように考えながら、今のさみしさはあの頃の辛さに比べればましだと考えて、そして眠る。
 けしていい眠り方とは言えない、でも忘れられない記憶だった。


 うつらうつらし始めた頃、そばに人の気配を感じた。やわらかい、清水の気配だった。
 清水の寝室は向かいにあるのだが、寝ぼけて入ってくることもよくあった。しかしこれは寝ぼけているわけではないなと、夢うつつに思った。
「……やなぎ」
 ふわりと柳の髪に清水は指を通した。同じ顔、同じ髪に同じ苗字。ひとは双子というけれど、ふたりの関係はそれだけではなかった。
「転勤多くて、ごめんな」
 声は震えていない。でも清水が泣いているとわかった。
「大変な時に、支えてやれなくてごめんな」
 泣くなよ清水、俺はなにもつらくないし寂しくないから。
「柳にいやなことをしたやつみたいなのが、いなくなればいいと俺は思ってるけど、そうはならないんだろうな」
 お前もまだ忘れてなかったのか、と内心で柳は苦笑いした。清水も昔をまだ乗り越えたわけではなかった。ただなかったことにして、汚くなったこのからだをきれいにする仕事をしてくれているだけだ。
 ごめんな清水、お前がそうじゃないのは知ってる、でも俺はやっぱりお前を――。


「俺が、柳を守るよ。柳が守ってくれたみたいに」


 額にかかる前髪をかきあげて、清水は俺のそこに唇を落とす。
「おやすみ柳」
 いい夢を、ときざなことを言って清水は部屋をあとにした。
 やがて眠気だけが、柳の中を支配していった。

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