どこにでもあるはなし

 痛いという感覚を、僕は知っている。
 たとえばつねられる。頬をつねられる、二の腕をつねられる、その部位はからだじゅう各所にわたる。どこをつねられても痛いものは痛い。どこだったか――たしか肘はつねられても痛くないというがわりとそうでもない気はする。
 あるいは叩かれる。心的外傷によりおそろしいという域を超えている人も少なくない。頭は叩きすぎると脳やその周囲に異変をきたすという話も聞く。
 またあるいは蹴られる、踏まれる。足というのは常に凶器ある。満員電車におけるピンヒールの脅威を知らない女性は多い。
 だが、痛いという感覚を嫌悪することを、僕は知らない。


 ホモのマゾヒストと聞くと、人はだいたい引く。嫌悪の対象に置くことが多い。なぜなら気持ち悪いからだ。男しか受け付けないくせにマゾ。叩かれたり縛られたり、そんなもので快感を得てイってしまうという概念は、一般社会にそう浸透しているものではない。
 全身傷だらけになって、そしてセックスする。むちゃくちゃに扱われて、痛めつけられて、自分に憐れみを覚えながら果てていく感覚はなににも勝る。
 そんな僕にも彼氏はいた。やっぱりサディストだった。それでも離れられないのは、彼がセックスにおいては見境のないサディストだったからだ。


「ほら、腰動かせよ」
 足首と手首をベルトで片手片足ずつ縛り上げられ、口にはギャグをはめてふうふう言う僕に真顔でバラ鞭を振るう。
「んんっ」
「縛ってって言ったのはお前だろうが」
 ほらさっさとしろ、と腰をひとつ揺らされてさらに喘いだ。騎乗位は好きだ。動けば動くほど欲しくなる。頑張ったら皆斗も動いてくれるようになる。
「できないならその首輪もうひとつきつくするぞ」
 ばしっとまたひとつ叩いた。太ももはすでに真っ赤になってミミズ腫れになった一部からは血もにじんでいる。
 きつくしてほしい。でも腰を動かしたい。欲に押されて、ひとつ腰を揺らした。声にならないうめき声を上げながら、僕は腰を揺らし続ける。
 揺らし始めればもう腰は言う事を聞かなくなる。ずっと揺らして、めちゃめちゃに腰を振ってゴールを求める。
 それでも皆斗はペニスに触ってくれない。ところてんにさせたいのだ。ドライやところてんでイく顔を見るのがたまらなくそそるのだという。
「ふぐ……んう……、ん!」


 あるとき、僕は病院へ行った。プレイとは関係なく、夕飯の支度中にうっかりフライパンで火傷したのだ。
 それも端っこでちょいとやってしまったのではなく思い切り肘を当ててしまい、さすがに高温のろうそくとかそういうプレイはしたことがなかったのであっちいと素直に叫んだのを憶えている。
 キッチンに駆け込んできた皆斗はこちらを見て一瞬固まった。水水と水道の蛇口をひねる僕よりもあたふたしていた。び、病院行くぞ、と震えた声が逆に笑えた。
『病院なんていいって』
『ばか言え、やけどなんかどんな雑菌はいるかわかんねえのにほっとけるか』
 そのまま車で病院に引っ張られ、診療終了寸前だったところへむりやり診てもらった。ふんふんと医者が検分するのを僕はじっと見ていた。皆斗は外で待っている。
『深いか浅いかと言われれば微妙なラインだね』
 医者は笑った。そんなに大事ではないという。そりゃそうだと僕自身も思っていたところである。そう言うと、それは違うんだよと医者は言った。
『それでも病院に連れて行くって思った彼は偉かったね。いろんな可能性を考えて、病院に連れてきてくれたわけだから』
 いい子だね、と医者は笑った。


 またあるとき、友人は僕にこう訊いてきたことがある。
 痛めつけられて快感を覚えるなんて、過去になにかトラウマでもあるのか、と。
『トラウマっていうと心的外傷というあれ?』
『いくらなんでも虎馬の話はしない』
 そうだね、と笑いながら僕は話の結末を考える。
『僕は幸せな家庭で育ったとは言えないね。僕がそれで不幸だと思ったことはないけど、幸せではなかったと思う』
 でもそれと性癖は関係ないよと彼を見た。
『たとえば幸せでない人間が世界中にたくさんいたとして、そのせいでみんなマゾヒスティックな性格や性癖を持ったらサディストが足りない』
 論理破壊だと思うか、と問いかけると彼は言ってることは間違ってないがたとえがめちゃめちゃだとため息をついた。
『マゾヒストの相手がサディストである必要があるのか?』
『ないね。マゾが好きになるのがサドばかりなら僕らの社会は非常に狭く厳しい門だ』
 とにかくどこにも着地できなかったというのがオチだが、僕が過去のせいでマゾになったわけではないひとつのエピソードとして紹介しておきたかった。


 ところでさきほどの医者の話に引き戻すが、彼は僕の性癖を知っている。やけどの際にプレイの痕を見られたからだ。
 医者は痛々しそうにそれを見た。合意なのかと聞くのでそうだと返したが医者はあまり納得していなかった。
 共依存の可能性があるよと忠告するように言うので、共依存でもお互いが幸せならそれでいいと言った。少なくとも皆斗の中に、僕は人権を持っていた。
 行き過ぎたSMで死ぬネコもいる。ときにタチも死ぬ。そんなことにはならないように、皆斗は最大限努力してくれている。
 まわりに痛々しくとも、どうしてセックスのやりかたを否定されねばならないのか。


「起きたか」
 タオルでこすられる感覚を覚えて瞼を上げる。
「あ、ごめん……」
「いや、今日は無茶やったから」
 ぱりぱりになったもののこびりついた下肢を、あったかいタオルで拭きあげている。
 無茶というのはだいたいいつものことだが、特に今日は無茶だったらしい。基準点はよく知らない。
「……僕、皆斗のこと好きだよ」
「突然なに」
 面食らった顔で、それでも皆斗は笑顔だった。いつも悪い笑顔ばかり浮かべる彼の普通の笑顔というのは貴重である。
「なんとなく、ちょっと今思ったから」
「ん、そう」
 目を伏せて僕から目をそらし、俺も好きだからあんまり煽ってくれんなと頭をぽふりと叩かれた。

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