あいしてサンプル:一章より

 靴を履いた。膝上まであるそのロングブーツを履いて、わたしは玄関を立ち上がった。冷えた空気が息を色づける。
 もうあと戻りなどできない。
 過去のわたしは罵るだろうか。未来のわたしは褒めるだろうか。もう決めてしまったことを、彼女たちはどう見るだろう。
 今まで避け続けたそのしっぺ返しが今来ているのだと、それを清算するために、夜の街へわたしは出ていく。
 今までの九年間を、粉々にするために。

 愛してるよと最後に言ったのは、いつだろう。
 電車に揺られながら、そんなことを考える。無駄だとは知っていても、仮定の話を考えてしまう。もしかすると、なんて、橙を遠くへやった窓の外を見つめながら反芻する。
 もしかすると、わたしがもっと愛していれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。そう何度も思った。抱きしめていとおしみ、慈しんでいたら。しかしもうそんな過去は起こりえないし後悔したところでこの決意が揺らぐわけでもないのだ。

 駅を出てしばらくのところ、三岐はもう待ち合わせの場所に着いていた。
 三岐。アラスカの雪色の男。わたしの愛した男。もう二度と、愛せない男。
「三岐」
 一言かけると、三岐はゆるやかに顔をあげた。
「ああ」
「待たせた?」
「いや、まだ来たところ」
 三岐はやおら立ち上がって、わたしを見た。
「行こうか、花夜」
 手を差し出される。こうして手を引いてもらうのも最後ね、とわたしはその手を取った。冷たい手だった。

 かやちゃん。
 そう三岐に呼ばれていたあの頃はもう遠い。体の弱かった過去の彼はよくわたしと遊んでいた。病院で生まれ病院で過ごしてきた彼は外を知らず、わたしの持ち込むたんぽぽやだんご虫で土の匂いや雑草の強さを知った。木に咲く桜や春の訪れの風は窓を開けて知ることができても、四階のベッドから離れられなかった彼は自然の地を這う強さを知らなかった。
 三岐は小学校の半ばまでは毎日学校帰りに病院へ立ち寄り、中学を卒業するころにようやく病院通いが緩んだ。長かったね、よかったね、と手をつないだその日から、わたしたちの恋人期間は始まった。

 高校は同じところへ通った。成績はほぼ同じだったが、わたしは数学、三岐は世界史が悲劇的に悪かった。それはもう悪かった。三岐にはエカチェリーナ二世の顔にばかな落書きをしてやっとテストで『こいつ白鷺城のやつだ』と思い出して答えを書けたという逸話がある。ちなみにその時のテストは三十二点でものの見事に赤座布団をくらった。
 三岐は帰宅部のくせによくもてた。さながら白皙の美少年は世界史ができなくてもよくもてた。数学のできないわたしはもてなかったが、それでも三岐はわたしを選んだ。外を知らなかった彼は舞い上がって羽目を外すことはしなかった。花夜、と帰りの靴箱で待っている三岐はみんなの羨望の的でありながらわたしの肩を包む恋人だった。
 高校二年になったあたりから三岐の身長はぐんぐん伸びた。からだが痛い、と一日寝込むほど伸びた。薬で抑えられていたのか成長が一気に来て、わたしとは五センチほどしか変わらなかった身長はみるみるうちに二十センチ近く差が出た。伸びすぎ、とわたしが上目で膨れるのをごめんねと微笑んで額にキスをするのがお気に入りになった。
 後輩から熱烈にもて始めたのもこのあたりだった。同級の間では言わずともしれた嫁ばかだったのでもう愛でられる対象だったようだが、その年の一年生は気性の荒い子の揃う年だった。
 一緒に帰れなくなる日が増え、周りが同情するほど二人で会う機会が減った。部活をしない三岐には後輩を無下にすることができず、しかしわたしとの時間も削られかなり悩んだようだ。懐の広さでも見せてあげたらどう、といつもなら高いところにある頭を撫でてやったこともあった。
 結局のろけを延々語ってやり、嫁ばかを露呈させることで落ち着いたようだが、落ち着いたころの三岐はひどかった。
 始終べったりくっついて離れず、授業には行くものの昼にはすぐに迎えに来、今までなら靴箱で待っていたのを待ちきれず教室まで来るようになった。それも気持ち悪いものではなくへたれた犬みたいな顔で来るので、つい『餌だぞー』なんて言って音符チョコレートを前に待てをしたりした。
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